34.能勢町宿野元暮坂峠の道標

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能勢町宿野1371 府道54号宿野1区公民館東200m橋の西詰北側墓地内北東部に南西を正面に建つ
(旧峠への道、大路地川の橋は明治橋かもしれない)
自然石 110x54x39p(台石24x85x62p)
N34.984822 E135.440161


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南西面
┌――――――――――――――――┐
│       右 やま道    │
│南無妙法蓮華経千部塔      │
│       左 志くの    │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北東面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では34)
(同書に「この道標は、元暮坂峠頂上近くにあって、宿野在所への道と山道との分岐点に、妙見参りなどの
 ため山内方面に対し立っていた。」としている。この「山内方面に対し」は、「山内から宿野に進む方向
 に正対していた」の意味であろう。理由を考えてみる。明治の地図でこの峠近くを見ると二本の小径が分
 岐しており、一本は東の尾根筋へ出た後小和田山方面へ、二つ目はその北側から北へ、峠の高さを保って
 進む小径が見える。案内が要りそうなのはこの第二の地点だと推測できるが、大きく西に廻り込んで弧を
 描いて宿野へ進み、辻の位置が同定できないと、方位が決められない。よって進行方向に対して正面を決
 めて、右左を満足する為に書いたものと思う。
  ここでは敢えて明治の地図と現在の道の痕跡から
N34.988163 E135.444322
 宿野435の新しい住宅地の南東端の南側辺りではなかろうかとし、丁度円弧の北端部分にあたるとし、
 東面していたと、したい。
  尚、暮坂峠から南に下れば、和田方面と山内方面とに道が分かれており、明治の地図では和田(七宝寺)
 方面が聯路で、山内方面へは小径となっていた様だ。
 前述の書にも「この暮坂峠は当地方から亀岡・京都方面への重要路で明治・大正期まで利用され…」とあ
 る様に、和田に出て吉野(ひいらぎ)峠を越える道が主であったと思う。
 それを示すように「七面口の題目道標」には、この峠を指し示すと思われる「右うしたう上宿野」が刻ま
 れている。
  一方、逢坂峠を越え、山内に下りれば「山内の地蔵道標」に続きその道標にも、「左京亀山」と案内が
 ある。
  『能勢町史』には「暮坂峠」、「逢坂峠」どちらの道も「三田・亀岡道」としており、西側の分岐点は
 「宿野久佐々神社の道標」の元の辻辺りに思える。その道標では「逢坂峠」を「右京道」とする。
  現存する道標からと距離からは、南側の逢坂峠を越える道が「京亀山道」の主要道に思える。)
(「千部塔」とは、単に題目を千回唱えるのではなく、法華経(一群のお経)を千部誦経した事を記念して
 建てるものらしい。)
 
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【1.道標を東に望む 【2.東の橋より西を望む 【3.道標を北に望む
 左端白く当道標  右ブロック塀後に当道標  左端が当道標
 奥(東)暮坂峠へ】  奥(西)府道54へ】  右ブロック塀後に川】

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【4.道標南西面左下部 【5.道標南西面拡大 【6.道標南西面右下部
 「左 志くの」は  「南無妙法蓮華経」は  「右 やま道」は
 「左宿野」であろう】  ひげ文字】  北へ分岐の道か】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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