33.猪名川町銀山瀬戸の道標

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猪名川町銀山瀬戸1 代官所跡から青木間歩への南北の道から東へ金山彦神社参道の橋の西詰北側に
西を正面に建つ(北側に灯籠一基が建つ)
尖頭型角柱 89x25.5x25.5p(頂高7p)(台石8x40x40p)
N34.898558 E135.348951


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西面
┌――――――――――――――――――┐
│天正度    七百五十三(米)   │
│   瓢簟鑛山           │
│豊臣公    水抜廣芝吹屋裏    │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│ 中谷校へ 三七八一(米)     │
│   海抜  一三0(米)     │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――┐
│      退営          │
│昭和大典紀年 廣芝茂男       │
│      石工 枳根庄      │
│          能勢政     │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│天禄度               │
│   金懸鑛山三五七(米)     │
│満仲公               │
└――――――――――――――――――┘


(『猪名川町の道標』教育委員会1979年刊では24)
(南面「中谷校」は現猪名川小学校と思われ、その沿革に「明治31年4月「中谷尋常高等小学校」と改称、
 上野字北畑11番地に移し、校舎新築、昭和16年4月「中谷国民学校」と改称。」とあるので道標建立
 時点では、現在の町役場にあったものと思われ、野尻の北経由の距離に一致する。
 当地点の標高は地理院地図で140mとあり、表記の海抜130mとほぼ近く、この地点の記述と考えられる。
  南面は建設地点を示し道標に移動が無かったものとすると、西面の「瓢簟鑛山」は場所を表したもの
 と考え、そこまでの距離が書かれているとしてみた。(下部の汚れが少なく埋没していた可能性は大。)
 現在の、地理院地図で西面の距離750mに当る地点に鉱山の記号が見え(廃坑)と記されており
N34.904318 E135.345980
 辺りとなるが、台所間歩の上部を指すと思われる。現在ではそのやや手前に「銀山史跡案内板」が建ち、
 『日本鉱業多田鉱山事務所跡』の解説がある。
  西面の書き方から見ると、そこが「水抜廣芝吹屋裏」に当っていたものと考えられる。)
(北面の「金懸山」は「金懸間歩」と思われ、代官所跡の南50mにある様で、距離も問題ないであろう。
 「天禄」は970年3月25日から973年12月20日迄と四年もなく、藤原実頼や伊尹や兼通が摂政の頃であり
 源満仲は正五位下に昇進した頃の様だが、満仲が開発した確証はなさそうである。)
(東面の施主の前に「退営」とあるので兵役を終えて戻ってきた時のものであろう。
 石工、枳根庄、能勢政が関係するものが「能勢町山辺行者山の道標」にもある。)
(すぐ北には施主の父又は祖父と思われる人の建てた灯籠もある。)
(施主の身内と思われる廣芝茂兵衛(翁)の銘を持つ道標が近辺に沢山あり「廣芝銘道標一覧」にまとめた。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南に望む
 奥(北)瓢箪間歩へ  奥、金山彦神社へ  奥(南)代官所跡へ
 右、金山彦神社へ】  右(南)代官所跡へ】  三ツ辻右、ソエ谷峠へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標南面拡大 【6.道標西面拡大
 年代的にも新しく  「中谷校へ三七八一」  「瓢簟鑛山」の下は
 読易いが実用性は?】  中谷小学校とした】  埋没していた可能性有】

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【7.道標東面下部 【8.道標北面上部 【9.瓢簟鉱山地点に建つ
 「退営/廣芝茂男」  「天禄度/満仲公」  「銀山史跡案内板」
 石工名等が読める】  「金懸鑛…」とある】  を西に望む】

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【10.猪名川町北部の道標】
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【11.猪名川町南部の道標】
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