98.三田市上相野686の道標

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三田市上相野686 県道141号上相野交差点から北西180mのY字路を西旧道に100m、畦道を北東へ20m、
道の北側に南西を正面に建つ
(東の県道と、旧道の中間で県道側からは見えない、大きな民家の北側)
山型角柱 54x24x20p(頂高5p)
N34.951672 E135.145525


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南西面
┌――――――――――――――――――┐
│右さん多中山(大坂)        │
│        (道)       │
│左花山(院妙見)          │
└――――――――――――――――――┘
(「多」は変体仮名「た」「三田」か)
(( )部は『さんだの道標』より)

南東面
┌――――――――――――――――――┐
│西国三十三所供養塔同(行六人)   │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

北東面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北西面
┌――――――――――――――――――┐
│(慶應二寅三月吉日)        │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)


(慶應二(丙寅)年三月1日とすると西暦1866年4月15日日曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では98)
(同書に「旧街道の三叉路の畦に建てている。」とある。当地は一見三叉路風だが北に道は無く単なる屈曲
 点である。)
(同書に掲載の写真では今より16p程度下まで写っており、文字も読み取れていた様でそれを参考にする。
 尚、現在読みとれる「さん多(「多」は変体仮名)」を「さん田」としているが「さんた」が良いか。
  当地を明治の地図で見ると、すぐ北の三差路は載るがここは直線状である。近隣の方にお聞きした所、
 「現道標のある道は「里道」であって西の旧道に真っすぐ、現三ツ辻辺りで繋がっていたらしい」との事
 で、西の旧道の今に残る三ツ辻
N34.951643 E135.145077
 辺りが元の位置であろうと思われる。
 案内を考えるとその三ツ辻の南東部に、現南西面をほぼ北面させ建っていたものと思われる。)
(「右三田中山」は現在の県道の旧道であろう西側の道を南下することを示し「上相野13の道標」に続き、
 「左花山院妙見」は現道標のある里道を示し、これを南東に進み「上相野713の道標」を道なりに進み
 JRの古宮踏切を越え、大瀧神社前から「上相野17の倒石」、四辻、東山、末、花山院と想像する。)
(『三田の道しるべ』郷土文化研究会1982年刊では13、南西面の写真が載り高さ90pとあり、写真から
 「右さん多中山大坂」、「左花山院□□□□」と読み取れる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 白壁土蔵左の植木の  奥左右が現県道  左20mの旧道へは
 手前に小さく当道標】  越して大龍神社へ】  畦道でなく里道】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標南西面拡大 【6.道標南西面左部
 かなり埋っていて  「右さん多中山」は  「左花山院」らしいが
 摩滅も激しい】  何とか読めるが】  「左花山」が精一杯】

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【7.道標南東面拡大 【8.道標北西面上部 【9.道標北西面下部
 「…供養塔同」迄は  「慶應二…」と  同じく月日辺りと
 読め下は埋没する】  されるが読めない】  思うが見えない】

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【10.三田北部の道標】
写真fimg7009 写真fimg7013
【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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