77.三田市大川瀬の道標1

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三田市大川瀬 県道315号と512号の交差点より西350m野球場南門東の地蔵祠前に西を正面に建つ
(祠の北側に「大川瀬の道標2」が建つ)
尖頭型角柱 84x25x25p(頂高8p)
N34.942521 E135.141817


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西面
┌――――――――――――――――――┐
│右さん田大(坂)          │
│      (道)         │
│左たん波古(市)          │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)
(『三田の道しるべ』の写真にあり)

南面
┌――――――――――――――――――┐
│ 西國三拾三所           │
│奉巡拝 (供養塔)         │
│ □□如(来)           │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

東面
┌――――――――――――――――――┐
│嘉永元年  □□村         │
│         同(行四人)   │
│申六月建之上相野村         │
└――――――――――――――――――┘
(( )部は『さんだの道標』より)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(嘉永元(戊申)年六月1日なら、西暦1848年7月1日土曜日になる。(嘉永元年は2月13日より))
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では77)
(『三田の道しるべ』郷土文化研究会1982年刊では2、西面写真有り)
(前書に「旧道の角に建つ。78と同じ場所」とあり、明治の地図で見ると、当地より北東の上相野に出る
 道が達路で東への道は聯路として描かれている。即ち北東への道が主要道であり舞鶴自動車道を越えた後
 は今も残り「上相野13の道標」の元位置であろう辻に出ている。現在(2019年)では、グランドで潰さ
 れたか、祠のすぐ北側が旧道であるならば薮となり進入できない状況である。
  「左丹波古市」に進めば、上相野から古市へと続くのは言うまでも無く、「右三田大坂」に進めば現県
 道315を東進し「下相野北西端の道標」に出会うことになる。)
(南面が「…如来」であるなら、何如来であろうか。Wikiによると西国三十三札所の本尊は観世音菩薩であ
 るらしいが、札所本尊と寺院全体の本尊とが異なる場合があり、21番穴太寺では札所本尊は聖観音だが、
 寺本尊は薬師如来としている。これであろうか。この部分に尊名が書かれることは少なく思われ、如来と
 あるならその下に「講」等が付いているかも知れず、読みも含めて少し気になる点である。)
(南西角(西面右側)が一番欠けている。これはここが一番当たりやすい角に立っていた事を物語り、今の
 設置位置と少し異なっていたのではないか。又、明治の地図では南の野呂谷から北へ直登するする小径が
 がこの辻辺りに出ており四辻であった可能性も考慮しなければならない。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を西に望む
 右(東)現県道へ  地蔵祠の右手前  右石垣に続いて道標
 左奥には道が無い】  に建つのが当道標】  左県道315を少分谷へ】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標西面上部 【6.道標西面下部
 右(東)相野駅へ  「右さん田…」  「…田大…」
 左はグランドの塀】  「左たん波…」】  「…波古…」】

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【7.道標南面拡大 【8.道標東面右上拡大 【9.道標東面左上拡大
 「…如…」の  「嘉永元…」  「申六月…」
 右側「口」は残る】  と読める】  と読める】

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【10.三田北部の道標】
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【11.三田西部の道標】 【12.三田東部の道標】
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