50.三田市小柿831の道標

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三田市小柿831 県道309号大谷橋の北60mの三ツ辻の北西部(私邸庭の南東部)に東を正面に建つ
(県道309号旧の小柿上公会堂と思われる白い木造屋から北100mでもある)
自然石 81x37x23p(台石21x52x45p)
N34.993142 E135.25934


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東面
┌――――――――――――――――――┐
│ 文化四卯天  右 志つ川     │
│奉納西國三十三所供養塔       │
│ 十一月十七日 左 さゝ山     │
└――――――――――――――――――┘

北面
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│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(文化四(丁卯)年十一月十七日は、西暦1807年12月15日火曜日となる。)
(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では50)
(行先の「左さゝ山」をお家の方に聞くと、「今では篠山のイメージは県道を後川へであり、左(西)への感覚は
 ない。」との事であるが、この西の峠を「差桐峠」と呼び乙原から北永沢寺前を過ぎ美濃坂峠を越え丹波小枕村
 への道を「池田街道」とする記述が『北摂羽束の郷土史誌』西村忠孜1993年刊の第二章に載る。即ち篠山の城下
 へは左(西)差桐峠を用いるとしている。
 「右志つ川」の「志」は変体仮名「し」で「しづ川」とし丹波篠山市後川として問題はないでしょう。
  これを国立公文書館デジタルアーカイブの「天保摂津国絵図」で見ると、小柿から北へ「氷柱石越」と、乙原
 の北から母子へ出て「美野坂峠」越への、両方共が朱線で描かれており、どちらも主要道であったと思われる。
  明治の地図では西に峠を越え乙原の北にでる聯路らしき道が見え、当地から北には達路であろう道が後川に続
 いている。国絵図とほぼ同じと見える。
  依ってこの位置に置かれて不自然とはならず、寧ろ必要である道標かと思われる。右左の理解がし易いように
 南東方向を向いていた可能性はある。度重なる移動と整備が行われ、元は上部に笠が載り、下部の台石が紛失し
 最近石を付け足した事等も、お聞きした。上部にほぞ穴らしきものが今も残る。)
(紀年については、『さんだの道標』で「文化四卯年」としているが「年」は「天」であろう。時々見かける書き
 方で「宝塚市大原野紙屋の道標」「茨木市清坂71西の道標」にも見られる。「年」と同じ意味であろう。)
(南100mには「小柿の道標」がある。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を西に望む
 奥、県道を小野へ  奥県道37から後川へ  奥(西)差桐峠を
 右(西)差桐峠へ】  左(西)峠へ】  越えて乙原へ】

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【4.道標を北に望む 【5.道標東面拡大 【6.道標上部を見下ろす
 庭を整備時に  上部左右に紀年  上部は傷痕ではなく
 道標も整備】  同、下部に行先】  笠が有ったらしい】

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【7.道標東面上部左 【8.道標東面上部右 【9.道標を東に望む
 「十一月十七」  「文化四卯天」  正面左山中の白建物
 と読める】  と読める】  三田の天体観測所か】

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【10.道標東面下部左 【11.道標東面下部右 【12.西差桐峠への道を望む
 「左さゝ山」  「右志つ川」  すぐ村の墓地になるが
 と読める】  と読める】  未踏査である】

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【13.三田北部の道標】
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【14.三田西部の道標】 【15.三田東部の道標】
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