45.三田市小野525の道標

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三田市小野525 県道49号(南北)と309号の小野交差点北西部に東を正面に建つ
自然石 82x60x46(右前部の幅30x前12p含まず)
N34.953707 E135.234096


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東面
┌――――――――――――――――――┐
│ 永沢寺              │
│右                 │
│ さゝ山              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『さんだの道標』教育委員会2000年刊では45)
(現在(2019)では県道が交差する四辻であるが、明治の地図で見ると、南の花山院方面から来た道が小野集落
 の北端で北西に分岐し200m進んだ地点の三ツ辻であったと思われる。道なりに北へ現県道49と、西黒川を渡
 り末への道が分岐する辻である。南面して建っていたなら「すぐ永沢寺」としたい道標である。)
(永沢寺は国会図書館デジタルライブラリ『摂津名所図会』12巻コマ36に3頁以上も記載され「花山院」の3行
 (同コマ34)に比べ圧倒的に多いことから、相当な名所であったと思われるが、その頃の道標に於いて漢字で
 表記することがあったかどうかが疑問であり、くずし字で書かれてはいるが、新しいものかも知れない。
  明治の地図発行以降、この辻が何時四辻になったかは分からないが、四辻成立後に今の様に東面して立てら
 れたものなら「右永沢寺」は納得がいく。三ツ辻時代なら北東面していて見比峠から下って来た人に案内した
 と思われる。四辻に成ったのは大正期以降と思われるので、この道標も大正以降の作ではないか。
  江戸時代には「やうたく寺」の様に(「永沢寺境内の道標(元禄の建立)」等)ひらがな表記が多く、漢字
 を使った慶応時代の「小柿唐尾慶応の道標」等も無くはないが新しさを感じさせる要因である。
 又、ノミ痕を残す所も新しさを感じさせる(「母子新田の道標」は制作年不明)。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を南東に望む
 奥(北)永沢寺へ  奥(南)小野集落へ  明治の地図に左奥(東)
 左(西)末へ】  右鉄柱下に当道標】  への道は無く三ツ辻】

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【4.道標を南西に望む 【5.道標東面上から望む 【6.道標東面拡大
 後ろを右(西)末へ  右前に受皿の様に  「右/永沢寺/さゝ山」
 文字面は少し沈む】  出張りがある】  と深く刻まれる】

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【7.道標を北西に望む
 東の道が無ければ
 南面していたか】

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【8.三田北部の道標】
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【9.三田西部の道標】 【10.三田東部の道標】
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