9.神戸市長田区西山町1の道標

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神戸市長田区西山町1丁目 参道筋を長田神社鳥居西で西折30m、北折70mで西への屈曲点(北に路地のある三ツ辻)
の南西部に北東を正面に建つ
(長田交番西からは200m地点)
尖頭型角柱 74x21x17.5p(頂高5p)(像部9x14x1p)
N34.671273 E135.145934


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北東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(右指差像)高取山道        │
└――――――――――――――――――┘

北西面
┌─―――――――――――――――――┐
│         神戸市東     │
│明治三十一年十一月         │
│         …        │
└――――――――――――――――――┘

南西面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(明治三十一年は、西暦1898年である。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(明治44年の地図ではここに辻が無く25m北に三ツ辻或いは筋違い四辻が見え、
N34.671547 E135.145934
 辺りになるか、元位置はここではないかと思う。東の長田神社の西の藻刈川から上って来た人に、高取山を案内す
 る為に建てられたと考える。当時の道筋も長田小学校迄は残っており、クランク状に登り小学校北西部の現登山口
 に出たと思われる。
  北東100mの長田神社の北には文化七年の「長田町4の道標」があるがそこに出る橋も明治の地図には載るが、
 現在(2020)は無い様である。)
(「指差し像の付いているものは明治から大正にかけてのものが多いとする一例である。神戸市民には馴染の毎日登
 山の発祥が明治38年頃」とする資料に従えば毎日登山用ではなく、信仰対象としてそれ以前から高取山へ向う人
 が多くいたことを証明するものであろう。この山を摂津名所図会の絵には神撫山とし、江戸期は鷹取山と表記して
 いた等といわれているが、この道標には「高取山」と漢字で記しており、明治44年発行の地図も「高取山」であ
 る。道標の表記に「高取」は少なくこの近辺にあるのみで、山頂近くの高取神社を示すものであろう。
  指差し像を持つ例で紀年のあるものは「兵庫区楠谷町24の道標」「兵庫区東山町4大正の道標」等がある。)
(紀年の下にある「神戸市東」は住所であろうが、「東灘区」はまだ存在せず、長田区内なら「東尻池、東丸山」町
 などが有りそうだが、高取山との位置関係から「東尻池町」の可能性が高いと思う。
 当時の東尻池が属する「林田区」が書かれていないのは、神戸市のHPから「明治29年(1896年)林田村・湊村・
 池田村を神戸市に編入し、神戸・湊東・湊西・葺合・湊・林田の6区を設ける。」とある事から「林田区」に馴染
 が少なかったと勝手に想像する。左側は読めない。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 左(南)八雲橋へ  奥(南)長田神社へ  奥(東)木立は神社
 奥、長田墓地へ】  右、高取山へ】  右、八雲橋へ】

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【4.道標北東面拡大 【5.道標北東面上部 【6.道標北西面上部
 ここでの案内は  右方向を指差す像は  「明治三十一年」
 特には不要と思う】  浮彫に成っている】  と読める】

写真himg0679 写真himg0670 写真himg0675
【7.道標を西に望む 【8.道標北東面下部 【9.道標北西面下部
 右端に見える辻を  「高取山道」  「神戸市東」は
 右折し、高取山へ】  と読める】  東尻池であろうか】

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【10.神戸市中部の道標】
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