4.大阪市福島区鷺洲本町2の遺失道標碑

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大阪市福島区鷺洲本町2−15−23 浦江聖天北のマンション15F建て東の公開広場植込み中に西を正面に建つ
板碑型 61x69x11p
N34.698999 E135.482949


写真himg3459

写真himg3480

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│  高野山十六リ 住吉二リ     │
│東                 │
│  吉野山十七リ 天王寺一リ十五丁 │
│――――――――――――――――――│
│  東ともにし登裳わからぬ旅人は  │
│西                 │
│  みな見にきた禮是の石婦み    │
│――――――――――――――――――│
│  なら  田九越三十六里     │
│南                 │
│  はせいせあを越三十五里     │
│――――――――――――――――――│
│    是から大江戸百三拾三里   │
│北 京               │
│   ふしみ迄十里 のぼり舟有   │
│――――――――――――――――――│
│ この碑は古より当地にあった碑石  │
│  一東西南北の道標が消失したので │
│   本建築物建設にあたり     │
│   碑文を再現したものである   │
│ 平成七年五月           │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(平成七年は、1995年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、605)
(平成七年の設置でもあり、直接の道標でもない為対象外と思うが、書かれている内容が余りにも面白いのでここに
 記載する事にした。内容からするとこの場所にあった事が窺われるが、元の石の建立時期が明確でないのが残念で
 ある。「古より」とあるので江戸時代と想像し、弘化期の絵図では浦江村の東に流れる川を東に越えた地点に四辻
 があり、これを明治初期の地図で探すと村南部の尼崎(大和田)街道上となりそうだが、道標が案内するほどの大
 きな道はなく、洒落で作った様に感じられる。特に具体的な案内先(地名)がなく、北の船乗り場が第一と考えて
 も新淀川は無く伏見への道なら東へ向うべきである。風流な歌が書かれた道標は時々あり一部挙げておくが、
 「芦屋市役所南東角の道標」
 「神戸市北区有馬町端宝寺北の道標」
 「茨木市三咲町2の道標」
 歌が目的ではないかと思うものもある。)

写真himg3484 写真himg3458 写真himg3481
【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南東に望む
 右端に当石碑  右の道は路地で  正面住宅後ろの木は
 奥に道は無し】  あみだ池筋方面へ】  浦江聖天境内北端】

写真himg3482 写真himg3461 写真himg3468
【4.道標を北東に望む 【5.元道標の東西部拡大 【6.元道標の南北部拡大
 文面を線で囲んで  道標は近くから書く  北に淀川が出来たのは
 いるのは元の形か】  のが普通であるが】  明治27年頃である】

写真himg3479
【7.道標の解説部拡大
 「古より」は何時か
 「消失」は平成七年か】

写真himg2312
【8.大阪市福島区の道標】

 2023/10/10 【訂正】
 記述に誤りがあり訂正と追記します。
 誤:(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載)
 正:(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、605)
 又、各面の読み下しに誤りが有り訂正しました。
【追記】
 同書には「元料亭『富竹』内、現在なし、マンション前に石碑のみあり」として載っており、その解読が当石碑と
 少し異なるので下記に載せる。


┌─―――――――――――――――――┐
│  高野山十六リ 住吉二リ十丁   │
│東                 │
│  吉野山十七り 天王寺一リ十五丁 │
│   天保壬寅春 原如水      │
│――――――――――――――――――│
│  是から大江戸百三拾三里    │
│北                 │
│  ふしみ迄十里 のぼり舟有    │
│――――――――――――――――――│
│  東ともにしともわからぬ旅人は  │
│西                 │
│  みな見に来れ此の石ぶみ     │
│――――――――――――――――――│
│  なら   田九越三十六里    │
│南                 │
│  はせいせあ越三十五里     │
└――――――――――――――――――┘


 東面「天保壬寅」が正しければ、天保十三(1842)年となり、旧暦「春」は一月から三月と思われます。
  尚、頭頂部は四角錐であったと思われ、各面に「易」占いに用いる算木による八卦が書かれている。
 図が描けないので、漢字で示しておきます。上記各面の方位文字に対応して
  東:艮(ゴン、うしとら、 北東)
  北:乾(ケン、いぬい、  北西)
  西:坤(コン、ひつじさる、南西)
  南:巽(ソン、たつみ、  南東)
 と有ったようです。案内面方位に対して反時計回りに45度ずれている。
  これから想像すると、案内とは別に各面の実際の方位を示していたのか、或いは四角錐の面が、角柱の稜線に
 向けて切り落とされ菱形の形状で有ったものかも知れません。
  ついでに、元料亭『富竹』は平成4(1992)年に閉店とする資料があり、この頃迄残っていたのであろうか。
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