4.大阪市生野区舎利寺1門前の道標

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大阪市生野区舎利寺1−2−36 鶴橋街道東側の舎利寺(尊勝寺)山門南に西を正面に建つ
(他に本堂南の石垣上に三基、「南側」「中央」「北側」はこちら。)
尖頭型角柱 141x32x32p(頂高5p)(指差像21x24p線刻)
(北面龕部下29pから67x25x-1p)(南面龕部下49pから91x12x-1p)
N34.651361 E135.536035


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写真himg5302

西面
┌─――――――――――――――――┐
│         三十三所観世音 │
│(左指差像)舎利寺      霊場│
│         善光寺如来   │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│安政四丁巳九月          │
└―――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│他     難波新地       │
│         千登世     │
│  世話人            │
│      九郎右ヱ門町     │
│力        春し政     │
└―――――――――――――――――┘
(「春」は変体仮名「す」)


(安政四(丁巳)年九月1日とすると、西暦1857年10月18日日曜日となる。この年閏五月あり。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、35頁)
(門前北の「舎利尊勝寺由来」によると、「嘉永年間、西国三十三所の石造観音を作成」とあり嘉永七年(1855)
 十一月が安政元年となるので、上記霊場が作成されて間もないころに建てられた道標である。ただ、左指差し像が
 あるだけで、その他の情報が無く元位置の推定は難しいと思う。世話人住所から見て、難波新地方面から来る人へ
 の案内とすれば、四天王寺、国分、舎利寺村南部への経路があり、現鶴橋小学校北西部で北(左)に折れる必要が
 有り此処の可能性は高い。この地点は「舎利寺境内の道標1」の元位置候補ともした辻である。)
(「難波新地」は現在(2021)の中央区難波4丁目辺りと思われ、「九郎右ヱ門町」はその北、道頓堀の南側の戎橋
 から西の大黒橋辺りまでの様で、中央区道頓堀1丁目の西部からほぼ2丁目すべてと思われる。)
(舎利寺関連で見ておきたい、蜀山人(太田南畝)の『葦の若葉』(国立国
 会図書館デジタルアーカイブの『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館のコマ58享和元年七月七日(1801年8月15日)
 にある「葷酒山門入不許」碑と思われる石は山門北側にあるが、当然この道標については書く由もない。)
(道標の外観としては、平滑に仕上げるでもなく、荒削りのまま残すでもなく、特異ならせん状の掘り込みがある。)

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【1.道標を南東に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を北東に望む
 奥(南)鶴橋小へ  奥本堂南に三基の道標  右から2番目当道標
 門南に当道標】  東門は無かった】  左(北)尾勝山古墳へ】

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【4.道標北面上部 【5.道標西面上部 【6.道標南面上部
 「他力」  左指差像の下から  「安政四丁巳九…」
 は横書き】  「舎利寺…」とある】  とある】

写真himg5317 写真himg5325 写真himg5306
【7.道標北面左中部 【8.道標西面下部 【9.道標南面下部
 「九郎右ヱ門町」  「三十三…」  「四丁巳九月」
 住所であろう】  「善光寺…」とある】  とある】

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【10.道標北面左下部 【11.道標北面中下部 【12.道標北面右下部
 「春し政」は  「千登世」は  「難波新地」は
 「すし政」寿司屋か】  店の名前か】  住所であろう】

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【13.大阪市生野区の道標】
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