6.大阪市生野区舎利寺境内の道標2

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大阪市生野区舎利寺1−2−36 鶴橋街道東側の舎利寺(尊勝寺)本堂南の石垣上に東を正面に建つ
(石垣上の三基の内、中央に建つ、「南側」「北側」「門前」はこちら。)
山型角柱 63x17x15p(頂高3p)
N34.65131 E135.536413


写真himg5250

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東面
┌─――――――――――――――――┐
│南 舎利寺所           │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│右 玉つくり           │
└―――――――――――――――――┘

南面(南側道標と接し見えない)
┌─――――――――――――――――┐
│右 (天王寺)          │
└―――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、590
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載)
(東面の「南舎利寺所」は舎利寺村を指すとし、西面「右玉つくり」を北とし、『大阪の街道と道標』にある南面を
 「右天王寺」を西の四天王寺と解釈すると、元位置は舎利寺すぐ北の四辻(明治44年地図では三ツ辻)の南西角
N34.651976 E135.536011
 生野区生野東3−10−15の四辻辺りが最適かと思う。南西部に現東面を西面させて建っていたとしたい。
  「舎利寺境内の道標1」で述べた蜀山人(太田南畝)の『葦の若葉』(国立国会図書館デジタルアーカイブの
 『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館のコマ58)享和元年七月七日(1801年8月15日)の項に、舎利寺参詣後、
 この辻を四天王寺に帰ったと思える記述があるが、彼が良く書きとめる道標には触れられていないところを見ると、
 その後の建立かもしれない。)
(寺の西側の南北の道は『大阪の街道と道標』に「桑津街道」とあり、北に向かうと「生野区勝山北4の道標3」
 西に続いている。)

写真himg5218 写真himg5220 写真himg5222
【1.道標を西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 右奥(西)山門へ  三基の道標の内  左奥(北)本堂
 右手枠外に本堂】  中央が当道標】  中央が当道標】

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【4.道標三基の東面拡大 【5.道標東面上部 【6.道標西面拡大
 中央が当道標  「南…」  左側が当道標
 「南舎利寺所」とある】  とした】  「…玉つくり」とある】

写真himg5800 写真himg5275 写真himg5295
【7.道標南面を見たいが 【8.道標東面下部 【9.山門を東に望む
 「右」以下は見えない  「舎利寺所」  左(北)鶴橋方面へ
 中央が当道標南面】  とある】  門内東40m右手に道標】

写真himg2318
【10.大阪市生野区の道標】
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