2.大阪市生野区勝山北4の道標3

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大阪市生野区勝山北4−4−23 鶴橋小学校南東20mの広い五つ辻を南東へ茨神社通りに入り170mの四辻の
南東部に北を正面に建つ
(南北の道は茨神社通り(桑津街道)、東西の道は旧平野川左(南)岸堤防上の道であろう。)
尖頭型角柱 56x26.5x26p(頂高6p)(頂4.5x4.5p平)
N34.65727 E135.534612


写真himg5051

写真himg5052

写真himg5059

写真himg5060

北面
┌─―――――――――――――――┐
│すぐ 信貴(山)        │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『研究紀要第三冊』より)

西面
┌─―――――――――――――――┐
│  宿坊光(明院)       │
│  大阪世(話人)       │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『研究紀要第三冊』より)

南面
┌─―――――――――――――――┐
│すぐ 玉津久(り)       │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『研究紀要第三冊』より)

東面
┌─―――――――――――――――┐
│河内屋兵助  河内屋(理右衛門)│
│今津屋九兵衛 備前屋(与兵衛) │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『研究紀要第三冊』より)


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、589
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、33頁)
(明治の地図を見ると南北の道が主要道で『大阪の街道と道標』が言うところの桑津街道と思われ、東は岡村集落へ
 の道に見える。北から信貴山へ参拝の人に南への道を案内するものであろう。さらに古い明治17年頃の地図では
 西への道が見えない。尚、信貴山への道は平野へ出るものと思う。)
(西面「宿坊光明院」として施主か世話人か分からないが、信貴山の東の奈良県生駒郡平群町吉新ウラヤ181−1
 に真言宗の寺が有る様で、此処を目指すなら十三峠への道と成ろうが、真偽は分らない。同一の名前を持つと思わ
 れる「巽中1の道標」「巽東1の道標」があり何基か一連で建てられたものであろう。道標に宿坊が入る事は、
 わずかにあり、「茨木市泉原4の道標」「宝塚市小林1地蔵堂北の道標」等を参照。)
(埋設部分を『研究紀要第三冊』より引用としたが、同書には写真も載り、北面、西面は読み取る事が可能である。)
(辻を東に向かうと道は南下し「生野区勝山北4の道標」の西に続く。)

写真himg5046 写真himg5044 写真himg5047
【1.道標を東に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を西に望む
 左から右奥へ茨神社通り  右(西)広い通りへ  右(北)鶴橋小南東角の
 奥(東)西俊徳地蔵へ】  左奥は茨神社通り】  大きな五つ辻へ】

写真himg5065 写真himg5084 写真himg5088
【4.道標北面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標西面下部拡大
 「すぐ 信貴」  「すぐ 玉津久」  「宿坊光」
 とした】  とした】  「大阪世」とある】

写真himg5066 写真himg5086 写真himg5055
【7.道標北面下部拡大 【8.道標南面下部拡大 【9.道標を北東に望む
 「…信貴」  「…玉津久」は  右南面「すぐ玉津久」
 「信貴山」であろう】  「玉造」であろう】  左西面「宿坊光…」】

写真himg5074 写真himg5077 写真himg5048
【10.道標東面上部拡大 【11.道標東面下部拡大 【12.道標を南東に望む
 「河内屋…」  「河内屋…」  左北面「…信貴…」
 「今津屋…」とした】  「備前屋…」埋没】  最近舗装で埋るか】

写真himg2318
【13.大阪市生野区の道標】
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