15.大阪市生野区巽中1の道標(河内国内)

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大阪市生野区巽中1−16−19 府道173勝山通で北巽駅の西350mの四辻を南へ道なりに80mの三ツ辻東部、
民家前に南西を正面に建つ
尖頭型角柱 62x20x15p(頂高3p)
N34.652707 E135.551419


写真himg5631

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写真himg5635

写真himg5639

南西面
┌─――――――――――┐
│左 信貴山      │
└―――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――┐
│ 宿坊 光明院    │
└―――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――┐
│右 大阪       │
└―――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――┐
│ 戎橋北詰伊勢(屋) │
└―――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(生野区中川、中川東迄が摂津の国で南の巽北に入ると河内国となる様で、河内の道標となり対象外であるが、調べ
 てみたので載せておく。)
(南東面「宿坊光明院」を大坂世話人として持つ「生野区勝山北4の道標3」があり、その道標から南へ桑津街道を
 進み、御勝山古墳より東に道を採り、「西俊徳地蔵前の道標」から更に東、この地(西足代)の北辺りで南に折れ
 ると、この道標前を通り、道標南20mの三ツ辻で東に分岐し信貴山へと向う様子が明治の地図に見える。その辻に
 建っていたと考える。)
(他に、同一の世話人と思われる「巽東1の道標」もあり何基か一連で建てられたものであろう。
  道標に宿坊を持つ「茨木市泉原4の道標」「宝塚市小林1地蔵堂北の道標」等も参照下さい。)

写真himg5627 写真himg5655 写真himg5626
【1.道標を南東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を北に望む
 南20mの辻を左へ  下部は埋設されず  奥(北)中川へ
 折れて八尾方面へ】  左鉄杭で固定か】  右は駐車場】

写真himg5649 写真himg5642 写真himg5643
【4.道標北西面上部 【5.道標南西面拡大 【6.道標南東面上部
 「戎橋北詰…」  「左 信貴山」  「宿坊…」とある
 此方が施主か】  と読める】  世話人であろうか】

写真himg5656 写真himg5647 写真himg5645
【7.道標北西面下部 【8.道標北東面拡大 【9.道標南東面下部
 「伊勢屋」  「右 大阪」  「宿坊」の下側
 のように思うが】  と読める】  「光明院」とある】

写真himg2318
【10.大阪市生野区の道標】
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