37.宝塚市小林1地蔵堂北の道標

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宝塚市小林1丁目7 南北の西宮街道と東西の参道が会う四辻の南西部、
地蔵堂祠の北に、東を正面に建つ
尖頭形角柱 136x北面20.5x21p(頂高5p)
N34.79495 E135.35424


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東面
┌─――――――――――――――――――――┐
│    武庫山平林寺聖徳太子開基     │
│(座像)                 │
│    本堂釋迦尊薬師佛 當国 観音堂  │
│             第二      │
└―――――――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――――――┐
│    是より一丁余西山手        │
│(月輪に梵字)              │
│    但し西宮ぬけ道阿里        │
└―――――――――――――――――――――┘
(『たからづかの道標』は「山手」を「山道」とする)

西面
┌─――――――――――――――――――――┐
│    十方一切             │
│(月輪に梵字)  宿坊宝樹院則籠代    │
│    法界塔              │
└―――――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――――┐
│      寛保二壬戌年十月日      │
│(月輪に梵字)              │
│      大阪講中世話人        │
└―――――――――――――――――――――┘


(『たからづかの道標』(昭和61年刊)では18)
(寛保二年十月一日なら、西暦1742年10月28日日曜日となる。)
(北面の「是ヨリ一丁余西…」が、平林寺を指していないとするのは、現在の位置から
 直線でも300m程離れている為である。では一丁余り西にあるのは何か。
  当道標が立つ辻を南へ向かう道が、西宮道であろうが、この西にも、西宮への道
 があることを示していると解釈したい。
  明治の地図では、西150mに広い道(西宮街道と記述)と170mにそれと並行する道が
 見え、何れも南は西宮方面へ向かっている。
 その何れかの道を指すものでしょう。そしてその道に対する注釈が左の行に書かれ、
 「ぬけ道」ですよと説明しているとする。
 此処で言う「ぬけ道」とは本道でない道を表し、今の一般的な抜道が持つ「近道」
 を表すものではないと思う。)

(抜道、わけ道の表現としては、
1.宝塚市中山寺山門前(西側)の道標          「西宮大坂通ぬけ」
2.宝塚市中山寺山門前(東側)の道標          「清水江通りぬけち可道あり」
3.宝塚市小林1地蔵堂北の道標(この道標)      「但し西宮ぬけ道阿里」
4.伊丹市寺本二丁目嘉永五年常夜燈型道標     「西の宮通り/ぬけ道あり」
5.宝塚市売布3(大)北側の道標             「くわう志゛ん道わけあり」
 等がある。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を南に望む
 左右(南北)が西宮道  奥(南)西宮へ
 奥(西)平林寺へ】  右(西)平林寺へ】

(梵字 は釈迦如来「バク」か。あまり見ない意匠なので載せてみます。)
写真dimg1976 写真dimg1977 写真dimg1978 写真dimg1979
【3.西面】 【4.北面】 【5.東面】 【6.南面】

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【7.宝塚南部の道標(明治44年)】 【8.宝塚南部の街道】 【9.阪急小林駅前東から北を望む
 
 
 明治時代の西宮街道(左側)から
 
 
 それより古い西宮道が分岐点する地点
 
 
 右(北東)側の道を採ると道標へ
 
 
 もう一本西側の道はこの背後で合流】

 2023/8/24 修正
 南面の読みを確認した所、世話人は『たからづかの道標』通りであった為、参照を削除し読み下しとした。
 紀年銘読み下しに空白があった為、読み違いをした方がいたようで、空白を省いた。月の下に日にちがあるの
 ではなく、「月日」と成っている。
 同時に、北面の読み下しの誤りを訂正した。
(北面の一行目下部「一丁余西山道」としているが、最後の文字「道」が怪しい。前述の書を無批判に受け入れ
 てしまった為と反省し、もう一度読み直した結果「山手」としました。書き始めが「ソ」に見えますが左上の
 「、」は無く「ノ」から太く入って下にタテに続け大きくハネ上って数字「3」様と見れば「手」となる。
  依って、案内の解釈も微妙に変更を受けると思われます。つまり、前と同じく道の位置を示すとする場合に
 加え、東面に書かれた「平林寺」の位置を示していると受け止める事も可能になる。私の考えでは、寺を案内
 しているとし、前の「道の位置を示す」とするを止めたい。即ち、東面には寺標も兼ね行先案内はせず、そこ
 へは、「一丁余西」へ進んだ「山手」に有りますよ、と北面で案内したものとする。現在では阪急今津線が通
 り当時の道は残っていないと思うが、道標から西に進めば、道の右側(西或いは北西)が山手となり、案内に
 矛盾はありません。)
(西面にある「宿坊宝樹院則籠代」の「宝樹院」が今の「宝壽院」とし平林寺の宿坊とすれば、この「則籠代」
 を役職名とすれば、施主を表しているものと出来そうで、西面と南面はあまり目立たなくて良い位置に置かれ
 そうである。よって元の向きを保っていそう。)

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【10.南面、右上 【11.南面、右中部 【12.南面、右下
 「寛保二」  「二壬戌年」  「年十月日」
 1742年となる】  壬戌は小さく斜めに刻】  日にちは書かれていない】

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【13.南面、左上部 【14.南面、左中部 【15.南面、左下部
 「大坂」  「…講中」  「世話人」
 と読める】  と読める】  と読める】

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【16.北面右下部 【17.北面右最下部
 「一丁余西山道」として  書き順「ノ」からとし
 いたが「道」であろうか】  「手」と読める】
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