7.大阪市生野区舎利寺境内の道標1

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大阪市生野区舎利寺1−2−36 鶴橋街道東側の舎利寺(尊勝寺)本堂南の石垣上に東を正面に建つ
(石垣上の三基の内、南側に建つ、「中央」「北側」「門前」はこちら。)
尖頭型角柱 56x15.5x17.5p(頂高5p)
N34.651302 E135.536417


写真himg5249

写真himg5256

写真himg5258

写真himg5260

東面
┌─――――――――――――――――┐
│右 舎利寺            │
└―――――――――――――――――┘

北面(中央道標と接し見えない)
┌─――――――――――――――――┐
│すぐ 中(野)          │
│     (岩田)        │
│(左 平野  住)        │
└―――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、591
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、34頁)
(東面の「右舎利寺」を北とし、北面「すぐ中野」を南とし、少し遠いが今の針中野辺りとし、『大阪の街道と道標』
 を信じ「左平野」を東と解釈すると、左元位置は生野小学校北西角辺りが最適かと思う。
N34.648454 E135.535957
 生野区生野東4−10−6の四辻、南西部辺りに現東面を東面させて建っていたとしたい。
 明治の地図で見ると寺より南の辻はそこにしか見えない。)
(建立年は分からないが、近世とみて、蜀山人(太田南畝)の『葦の若葉』(国立国会図書館デジタルアーカイブの
 『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館のコマ58)享和元年七月七日(1801年8月15日)の項に、農人橋から平野川
 左岸(西岸)の道を南行し舎利寺に参詣したした様子が詳しく書かれ、裏門に「葷酒を許さざる石」は書くが道標
 には触れられていない。)
(寺の西側の南北の道は『大阪の街道と道標』に「桑津街道」とあり、北に向かうと「生野区勝山北4の道標3」
 西に続いている。)

写真himg5218 写真himg5219 写真himg5221
【1.道標を西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北東に望む
 右奥(西)山門へ  中央三基の内  左奥(北)本堂
 右手枠外に本堂】  左奥が当道標】  三基の内右が当道標】

写真himg5255 写真himg5277 写真himg5282
【4.道標三基の東面拡大 【5.道標東面上部 【6.当道標北面(右)と
 左端が当道標  「右舎」  中央道標の南面の
 「右舎利寺」とある】  とある】  隙間を東に覗く】

写真himg5290 写真himg5279 写真himg5297
【7.道標を西に望む 【8.道標東面下部 【9.山門を南東に望む
 柵代わりに使われ  「舎利寺」  右奥、生野小学校へ
 残念である】  とある】  門内東40m右手に道標】

写真himg2318
【10.大阪市生野区の道標】
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