2.大阪市都島区都島中通3の道標

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大阪市都島区都島中通3−14−20 国道1号京橋交差点(環状線ガード下)から北東道なり750mの西側、
榎並地蔵堂北の壁際に南を正面に建つ
(旧、京街道のリブ・ストリートのアーケード北端から300mでもある)
墓石台石 33x53x42p(南面整面巾43p)
N34.704917 E135.536242


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南面
┌─―――――――――――――┐
│  者し向         │
│右             │
│  可も          │
│  今ふく         │
└――――――――――――――┘
(「者」は変体仮名「は」「橋向」か)
(「可」は「か」、「かも」で「蒲生」か)

東面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――┐
│(なし)          │
└――――――――――――――┘


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(現在(2021)では上部に不釣り合いな石を載せるが、元は墓石の台石であったと思う。墓石に案内を刻むものは
 時々見受けられ、これもその一つであろう。)
(南面の行き先は「かも」は「がも」とし「蒲生」、「今ふく」は「今福」で問題なかろう。何れも近所である。)
(明治の地図で見ると東20mに川が流れ、橋を渡り、道標から90m東に南北に走る道が見え、南へ向うと蒲生から
 今福へと続いている。この道を案内したものであろう。当地点は野江の南端辺りと思われ、明治17年頃の地図に
 川の東に墓地の記号が載る。その墓地内よりも、「者し向」を「橋の向こう側を右」と捉えて、元々この京街道筋
 に有ったものと思うが、案内が書かれていたおかげで今日まで残ったと考える。
  尚、未確認ではあるが、川は「榎並水道」、墓地は「刑場」であったかも知れない。
 市立図書館デジタルアーカイブの『大阪市中地区町名改正絵図 (大阪古地図集成第16図)』明治五年(1872)
 に載っているかも。)
(墓石の道標は市内では「大阪市福島区鷺洲本町2の道標」が戒名らしきを持つが私の墓石のイメージからは遠く、
 この道標が唯一ではないかと思う。勿論大阪市を出ると一般人の墓の他、力士等の墓とするものは結構多く見られ
 る。「茨木市清阪63地先の道標」「摂津市三島2の道標」等を参照下さい。)

写真himg5946 写真himg5983 写真himg5953
【1.道標を北西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北東に望む
 中央地蔵堂の後ろ  立札右下に当道標  高さを出すためか
 右奥(北)京街道】  祠内が榎並地蔵か】  石の上に置かれる】

写真himg5976 写真himg5968 写真himg5966
【4.道標南面全体 【5.道標南面左部 【6.道標南面右部
 上部と当石と  「可も、今ふく」  「者し向」は「はし向」
 下石は別物と思う】  と読める】  橋の向こう側の意か】

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【7.道標を見下ろす 【8.道標を西に望む 【9.榎並地蔵由緒を西に望む
 上部像は不釣合い  撮影位置が河川跡と  地蔵の由緒と共に
 元石の痕らしきも】  想像できる】  道標についても書く】

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【10.大阪市北区の道標】

【榎並地蔵由緒】
 道標についても書かれていたのでここに載せる。

  榎並地蔵由緒
大阪市都島区都島中通三丁目の北詰 京街道 沿いに 榎並地蔵さん があります
榎並地蔵さんがいつ頃から祀られるようになったかは不詳ですが、古くから野江村の
方々により、大切にお祀りされていました
石に二体の人物像が彫られ、榎並地蔵として後に発見された道しるべと一対の石佛
と考えられています
 (「日本古来…古くから信仰されています」と石佛信仰の一般論に付き3行省略)
もとの場所は当地より南、榎並川に架かっていた水香橋の袂に祀られていたようです
古代より この地域は度重なる洪水に悩まされ地蔵にまつわる古文書などは残っていま
せんが昭和、平成に入り
・昭和二年大和郡山矢田寺念仏院で開眼法要された 十一面観世音菩薩
 地蔵菩薩、吉祥天様の菩薩三体が作られました
・昭和二十七年の講規約に地蔵講で葬儀道具一式を保有し 葬儀全般 (枕経
  葬式、墓所)のお世話をしていた事が明記されています、 その後 葬式が葬儀
  業者やお寺で行われるに従い役目を終わられています
・平成二十年五月六日地蔵堂新築工事に伴い旧地蔵堂内より 道しるべ が発見
 されました、制作年代は江戸時代の中頃以降に作られたものと推定されています
 文字は 者し向 右 可も 今ふく と彫られており万葉仮名で解釈しますと
  者し向 右 可も 今ふく = はし向 右 かも 今ふく と読めます従って
 現代の言葉では 橋向こうを 右へ 蒲生 今福 と解釈されます
地域の人達は伝統を大切にし、毎日供花清掃などのお世話や毎年八月二十三日
八月二十四日の両日、三体の菩薩様のご開帳と地蔵盆が盛大に行われております
  平成二十年五月吉日
   榎並地蔵講一同 合掌

(これを見ると、現道標の上に有る石が一般的に言う「榎並地蔵」で祠内に三体の石仏が置かれていると思う。
 次に、私見を述べると「二体の地蔵像と一対石佛と考えられています」が次の理由で誤りであると思う。
 1.石の材質が違うように見える。
 2.上部の石とのバランスが悪い。
 3.又、この大きさを載せるなら嵌め込み用の穴が必要であるが無さそう。今は接着してある。
 4.水鉢のすぐ後ろから、上部に有った石の日陰(日焼け)跡の様なものが見える。
 又、元の場所に関する説明が無いのは残念であるが、「当地より南」に当たりそうな60m南の四辻から東に渡る道
 は明治の地図には無く、昭和4年の地図に描かれるようで、道標が近世の作とすれば、元位置は現在地の方が可能
 性が高い。但し、辻の東側(橋の西詰)に有った場合は道幅分移動されているであろう。もっとも道の西側であっ
 ても今の位置では奥まり過ぎている為、近接移動はされているとする。)

写真himg5981
【11.道標との材質の違いが
 感じられる写真
 背後を上部から見おろす
 上の石は黒雲母が大きい】
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