12.大阪市平野区加美西1の道標(河内国内)

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大阪市平野区加美西1−6−11 国道165号平野東1交差点(五つ辻)北側に南を正面に建つ。
尖頭型角柱 155x25x24.5p(頂高4p)
N34.624763 E135.560839


写真himg7545

写真himg7546

写真himg7547

写真himg7549

南面
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│畠山政長之墓           │
│   是ヨリ北約七八三メートル  │
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東面
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│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│昭和七年十月建之         │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(昭和七年は、西暦1933年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(この辻の西、平野川右岸(東岸)が摂津と河内の国境で河内国渋川郡鞍作村となり対象外であるが、市内でもあり
 載せておく。)
(大阪市平野区のhpから「畠山政長の墓」を見ると「明応2年(1493年)義就の子義豊の逆襲にあい、あえなく敗
 北した。この兵火のため、壮大を誇った正覚寺の伽藍も焼失した。世にいう「正覚寺合戦」である。」とあり、こ
 の人の墓を案内するものであろう。住所は平野区加美正覚寺2−6と成っており現在の地図上では直線で770m程
 となり其処を指したものであろう。現在の道標から北への道を採るとJR等で直進できず、東に迂回せざるを得ない。
 これは昭和七年の地図でも同様で、この辻に建てるよりは北東80mの三ツ辻から北に直線の道があり、ここよりも
 案内に相応しく、道に沿って距離を測ると778mとなりそこからの移設としたい。現在(2021)では墓へは西側の
 道からしか入れないので100m近く長くはなる。
  尚、直線距離が書かれているとして此処より北に向かった場合、当時では真北への道が無く北西土手沿いに進み、
 堤から北に分かれて、東に戻り更に北へ進み線路を越えて正覚寺集落の東を通る道も見えるが、行程900mと長く
 なり道案内としては不親切になる。)
(対角線上20mの辻南東部に「平野区加美西2の道標」が建ち、
 東に「平野区加美鞍作1の道標」、西「平野区平野東1の道標」へと続く。)

写真himg7538 写真himg7539 写真himg7540
【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を西に望む
 白いビル右に道標  左の道は最短でなく  奥(西)国道25号
 手前右から左へ国道】  奥80m先から北へ】  平野、天王寺へ】

写真himg7553 写真himg7552 写真himg7556
【4.道標南面下部左 【5.道標南面拡大 【6.道標北面拡大
 「…北約七八三…」は  「畠山政長之墓…」  「昭和七年十月建之」
 直線か歩く距離か】  と読める】  と読める】

写真himg2320
【7.大阪市平野区北部の道標】
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