78.茨木市郡5郡小学校の道標

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茨木市郡5-25-23 郡小学校西側校門通用口北側10mの植込み中に南を正面に建つ。
尖頭型角柱 74x24x25p(頂高8p)西面上辺の5p下から8x9x13pの穴、北西上部一部欠損
N34.8343421 E135.551381


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南面
┌────――――――――――――――┐
│右 福井 石河 清渓        │
│左 豊川    箕面 (池)    │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)

東面
┌────――――――――――――――┐
│右 福井 石河 清[渓]      │
│左 茨木    吹田        │
└――─―――――――――――――――┘
([ ]部は筆者)

北面
┌────――――――――――――――┐
│明治四十三年七月  (大阪)    │
│    此処 春日村        │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)

西面
┌────――――――――――――――┐
│右 茨木  吹田 大(阪)     │
│左 豊川  箕面 池(田)     │
└――─―――――――――――――――┘
(( )部は『わがまち茨木』より)


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では18)
(同書に「昭和47(1972)年調査のときは、消防の警鐘台の台石に使われていた。台石に使う時、下部を砕いて短くし
 たので下の部分の文字がなくなっている。」として読み下しを掲載しているが、何故か東面が書かれていない。
  又、元位置を「亀岡街道と茨木街道の合流点であろう。」としている。道標の「此処春日村」だけでは無理か。
  明治の地図で見ると、茨木街道は郡3丁目の北東端(郡神社の東)で亀岡街道から西(宿川原方面)に分岐してい
 たようで三ツ辻に描かれており、同書の記述どおりに受け取ってよいか迷う。そこで消防の警鐘台から当たりを付け
 ると「茨木市消防団春日分団郡部」が郡3丁目23にあるようで、現在の郡公民館の北に少し空地が見え、この北60m
 の三ツ辻(T字路風)が元位置候補に相応しいのではと思う。
N34.831745 E135.555837
 辺り、郡3−25−1民家の南西角に現在の向きのまま置けば、行先の整合性がピタリとはまる。即ち案内する方向
 は三方で、西は豊川、箕面、池田、南は茨木、吹田、大阪、北(微視的には北東)は福井、石河、清渓である。
 尚、清渓は「きよたに」と読み、昭和30(1955)年に茨木市に編入されるまでの三島清渓村を指すと思う。
  南東500mからの移設となる。)
(尚、元位置から南60mに「郡3の道標」へ、西に分かれ道なりに北西1q強で「宿川原町1北側の道標」等三基に、
 北に向かうと1km程で「中河原町10の道標」に繋がります。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南西に望む】
 正面壁の向こうで  中央に当道標  道標右横に
 道標は見えない】  西横の道は郡山古墳へ】  校区歴史散歩地図】

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【4.道標西面上部 【5.道標南面上部 【6.道標東面上部
 「右 茨木 吹田」  「右 福井 石」  「右 福井」
 「左 豊川 箕」】  「左 豊川」】  「左 茨木」】

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【7.道標西面下部 【8.道標南面下部 【9.道標東面下部
 「吹田 大」  「 石河 清渓」  「井 石河 清」
 「箕面 池」】  「川 箕面」】  「茨木 吹田」】

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【10.道標北面上部 【11.道標北面中部 【12.道標北面下部
 「明治四十三年」  「四十三年」  「十三年七月」
 と読める】  と読める】  「此処 春日村」】

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【13.道標を南東に望む 【14.元位置候補を北東に望む
 西面に穴が開けられて  左生垣の前辺りと想像
 いるのは台石の名残か】  奥を左に向かい学校へ】

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【15.茨木南部の道標】
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