1.大阪市都島区内代町3の標石(道標ではない)

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大阪市都島区内代町3−4−6 内代小学校、南校舎中央南側、柵との間に南を正面に建つ
尖頭型角柱 102x22x21p(頂高4p)
N34.712663 E135.537233


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南面
┌―─――――――――――――――┐
│國道第二號路線 距高麗橋元標  │
└――――――――――――――――┘

東面
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│ 距守口一里三丁四十七間    │
└――――――――――――――――┘

北面
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│明治三十六年十二月建設(大阪府)│
└――――――――――――――――┘
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

西面
┌―─――――――――――――――┐
│(なし)            │
└――――――――――――――――┘


(明治36年は1903年。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、135)
(道標ではありません。里程標でしょうか、旧街道の参考と出来る為、載せて置きます。)
(国道第二号路線とは、『大阪府史』明治36年(昭和36年復刻版)によると、「本線は東京府より我大阪港に通ずる
 を以て目的とし、本管に在りては城摂国界なる北河内郡樟葉村大字樟葉より来たり、同郡牧野村枚方町、…、守口
 町、東成郡古市村、榎並村等の諸町村を点綴し大阪市東区高麗橋元標に至りて終わる。延長七里十八町十七間にし
 て幅員約二間五分を有し…」とある。依って、当石にある、高麗橋、守口等は矛盾しないであろう。守口の距離が
 4,340mになるようで、明治の旧道を完全に辿る事は出来ないと思うが、守口に里程石等があれば、当石の元位置
 もほぼ推定できると思う。或は南面下部に「元標 一里」等が有れば、高麗橋からも可能であろう。概ね、現都島
 通りの、「野江4」交差点辺りではないかと思う。)
『今昔マップ on the web』で明治44年の地図が見える。)
(起点は「東高麗橋6の里程元標跡」を参照。少し南に離れるが、京橋駅近くに「都島区東野田町2の道標」がある。
 似たものとしては「平野区中野2の里程標」等。)

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【1.石標を北東に望む 【2.石標を北に望む 【3.石標の南面下部
 右奥(東)城北筋へ  南面、「國道二號…」  「距高麗橋元標」
 左、内代小学校南校舎】  「…元標」の下に続くか】  「一里」は見えず】

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【4.大阪市北区の道標】

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