17.大阪市東淀川区菅原1−12の道標か

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大阪市東淀川区菅原1−12 行友家門前東植込み中に北東を正面に建つ、境界石かも知れない
角柱 大きさ不明
N34.737143 E135.525398


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北東面
┌―─――――――――――――――┐
│國次町 左   施主      │
│     古増島 國次子孫   │
└――――――――――――――――┘

北西面
┌―─――――――――――――――┐
│ 國次町            │
└――――――――――――――――┘

南西面
┌―─――――――――――――――┐
│御大典記念           │
│昭和三年十一月建之       │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌―─――――――――――――――┐
│ 豊里菅原町          │
└――――――――――――――――┘


(昭和三年は1929年。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載)
(道標かどうか不安であるが、北東面の中央やや右寄りの字を「左」とみなし、「古増島」を行先とする。
  webを「菅原の行友家」で探すと、とあるブログに当り、境界石とされているようですが、上記の文字を「元」と
 読み取っている。
  wikiではありますが、淡路の項に「大正14(1925)年、大阪市へ編入され、東淀川区国次町、昭和14(1939)年に
 淡路新町、昭和33(1958)年に淡路本町・西淡路町・東淡路町ができ、国次町の町名は姿を消した。」とある。
  『今昔マップ on the web』昭和22年の地図では、阪急淡路駅の西に「國次町」、当地点の近くに「豊里菅原町」
 があるが、町境は分からない。現在の菅原町の境界はJRの大阪東線辺りと思われ、当地点は町境とはいえない。
  次に行先とした「古増島」であるが、前述の明治の地図では、現東淡路町公園辺りに「増嶋」とありこれに向
 うものと想定し、現在地点の前(北)が昭和の地図で三ツ辻にも見え、現北東面を南面或いは南西面させて置けば、
 現、「菅原1」交差点方面となる行先を示したとして納得できる。
  尚、「古」であるが、『元禄摂津国絵図』に「増嶋村」があり、『天保国絵図』では付箋が貼られ
 「高畑村/増島村 名改/淡路村」とあり、天保以前の呼び方を示すものかも知れない。)
(町境を意識して立てるならば、府道14号線がJR大阪東線の下を潜る(「菅原1」交差点の南60m)辺りの三ツ辻
 北部に置けば、西側が國次町、東側が菅原町となり、町境も行先も満足する。この時西200mからの移設となる。)
(北東、直線60mに「菅原1の道標」(一柳家門前)がある。
 境界石なら、似たものに「伊丹市鈴原4町村境碑」「神戸市境碑」等がある。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南に望む
 中央白い柵の後ろに建つ  北西面「國次町」とだけ  民家と共に道から一段
 右奥「菅原1」交差点へ】  書いた面が見えている】  高い敷地の柵内に置く】

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【4.道標を西に望む 【5.道標を東に望む 【6.道標北東面少し拡大 【7.道標北東面拡大
 左南東面「豊里菅原町」  左北西面「國次町」  「國次町」の下少し右寄りに  「左、元、尤」か
 右北東面「國次町…」】  右南西面「昭和三…」】  「左」とし「古…」と続く】  「左」とした】

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【8.大阪市東淀川区の道標】

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