令和の時代

石切駅北口を降りる。
             

               昔在った 石切駅付近
                                  行列の出来ていた占い師がいた道端

          
               平成30年の台風で提灯が飛んでしまった。

昔の話
昔(昭和39年)は此処に石切駅があった。
階段を上って奈良行きホームへ、ガードを潜って大阪行きホームへ。今も 階段が残っている。

大正三年 大軌鉄道が開通し 石切神社に参拝客が急増した。そこでバスをと
昭和三年六月資本金六万円で 石切駅と神社間のバスを運行した
マンション「ビスタ石切」  下の写真の右側の建物 の地下部分がバス停でした。
当時の朝日新聞(昭和7/7/13)  石切さんが匙を投げ出す  お膝元に現れた癌  バスト土産物店の争い という記載あり。
バスが開通すると参道70余軒の土産店の売り上げが半減すると、参道の石切会 危機感を抱き浴衣に赤タスキを掛けた若者が
「まことの信心家は歩きましょう、道はわずか5町です」 バス側は「道は10町 遠いですよ・・・・」
バスト商店会の客引き合戦 結果は 徒歩6割、バス4割。
昭和3年から営業開始し太平洋戦争が始まる前に廃線となる。
(2015・3・1 ゆうゆう99号参照)

今も残る 当時の看板

2回目の廃線 平成のバス路線廃止について

平成28年6月より 新石切駅前〜石切駅前の石切線が減便(土曜日1便のみ)されることに関し
石切東校区連合自治会で5486名の減便中止の署名を集め 東大阪市長、市議会議長、近鉄バスに陳情した。

読売、朝日、時事通信、共同通信を前に記者発表を8月1日行い8月2日の読売新聞にも掲載され、議会でも本件に対し行政に問い質した(議会だより、No192号)。
しかし 最終結果は 減便から廃止へと進み 平成29年4月1日 バス路線は無くなりました。
その理由は バス乗務員の不足(募集しても集まらない)という話であったが採算が合わなく赤字路線が真意だと思われる。
             
      陳情書                                                                  市長に提出  市長室にて
石切は坂道でつながっている。高齢者にとって大変厳しい場所である。
高齢者の移動手段が無くなり 市の基本政策の公約 暮らし易い 人に優しい町、地域づくりは どうなっていくのでしょうか。


                         


河内木綿はたおり工房
河内木綿の伝統を守り 綿の栽培から織まで全て手作業で商品を製作販売されている。
見学  体験も可能らしい。

    
河内木綿
江戸時代 河内地方では1704年(宝永元年)大和川の付け替え工事の後 川床を利用して木綿がイネと同じほどの面積に植えられた。
この地域は「河内木綿」として法被,足袋、暖簾などに使われた。
明治30年以降 生産は終わりを告げた。


献牛祭の牛や神輿などが陳列してあった献牛舎は無くなって更地に



八百屋、菓子屋、鍼灸院、右側にあつた洋装店、占いなど全て今は無い。

 中鳥居と言われた大きなコンクリートの鳥居も撤去された。
 右側には本屋、食堂正面に理髪店、左側にお茶屋、パーマ屋などあったのが記憶にある。



奇抜な建物です。 昔はこの場所に有名な薬房がありました。
耳鳴りの神社としても有名でした。
おそらく このように変貌するとは誰が推測したでしょうか。

       水彩画で描いた現在の建物




  この場所より 眺めた風景

                           大仏が間近に見えます。俯瞰図

                                      

このように変化しました。



         イメージ  夜の景色

                                                     

   二階はイタリヤ料理店です
   2階から眺望する 大阪の夜景は 将に100万ドルの夜景です。
   夏の夜に輝く花火大会はどうでしょう
      


年々増加する空き店舗、シャッターで閉ざされた店舗

   
花屋、洋服店、占い店この横には 
東大阪アンテナショップもあった。 

 2009年10月10日オープン、しかし 2019年閉店 全てが撤去され 夢のあとになってしまった。
橋本知事も来訪したオープン、しかし 昨年(2019年)閉店した。
 此処には 足湯もあり 当初は珍しさもあった。東大阪地産の商品も展示されていたが
    

当時の東大阪アンテナショップ

2009年10月オープン


 
開店当時の店内 

 
足湯を楽しむ老若男女


東大阪で作られた商品などが陳列されていました。

 
正面  入口が狭いので見つけにくかった。

 
無料の足湯です。

 





                  

食堂、土産物店などがあった。
貸店舗にはいろんな店が開店したが すべて辞めていった。




石切参道商店街  ユニバーサルマップから
令和の参道マップが下図にある。
20年ほど前のマップと比較すると 商店の数が122店から83店に 40店ほど減少している。
昭和の時代には150店以上もあったのだが。
特に近鉄石切駅から中鳥居、郵便局の 参道東上部が減少が著しい。
神社から遠ざかるほど、上に上るほど閑散としてくるのです。

その理由として考えてみると
 参拝客の減少 時代の多様化   娯楽の多様化 神さん参りの希薄化
 商店主の老齢化による廃業   後継ぎがない
 新石切地下鉄の客の分散   坂道を歩くしんどさ  老人には過酷な道
 店舗の画一化(多すぎる占い屋、婦人服屋など)  魅力的な個性ある店の減少
これは地方の商店街を含めた全国で垣間見られる現象と思われます。




サポート店舗 83店


   平成時代の参道筋へ行く

令和6月 コロナ宣言解除後

辛酸なめ子的  民ゾクッ学 
(2014,11,5  読売夕刊)

日本一占いの店が密集している、カオスで異次元なな空間を訪ね 自分を見失うようになったという文書から抜粋。

結婚相生(正・・性)ズバリ当ルという誤字交じりの看板  
福を売る店 というだじゃれの看板
世界で二番目に大きい一角獣の牙
石切大仏あり、大黒天、石切不動明王、七福神、二宮金次郎、北向地蔵、石切大天狗 神仏習合 あらゆる神仏が鎮座しています。
わけが分からなくなり  この参道の空気に飲み込まれるとと。
もっと言うと 生きる目的まで分からなくなる。
神頼みモードよりも 冷静な突込み気分で散策した方がよいと言っています。

しかし 時代は徐々に変化してきている。
当時と比べ 占い師の高齢化で 占いの店が 少なくなっています。

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