夏休み 久々の長崎旅日記5(2011.9.2〜9.4)
この日は代休であり、翌週は博多出張のため、土日含めて長崎へ旅に出かけることにした。
久々の長崎
大学時代の友人が現在長崎へ単身赴任をしているため、その友人を道連れに旅をすることにした。この友人のことを旅日記では「タカ坊」と呼ぼう。
14時の飛行機で長崎空港へ行く。そこから長崎市内に高速バスで移動。久しぶり長崎駅を見る。
長崎市内には13,4年ぶりである。その当時、地元の友達が大村に住んでおり、その友人の結婚式が大村であり、その後、地元の仲間と2次会で長崎市内に繰り出して以来である。観光はしていないため、実際の観光で長崎に行ったと言えば、二十歳の時、長崎旅博で観光に行った以来である。うぅーん懐かしい。
長崎駅にタカ坊に来てもらう。タカ坊は仕事中で、仕事が終わるまで職場で待つ。
この職場は、うちの会社の事務所で、タカ坊は、うちの会社の子会社に勤めている。
タカ坊は、大学時代の同級生で、高校時代に同じ野球をやっていたこともあり、直ぐに仲良くなった奴である。
大学3年の時は、二人とも下宿をでて一人暮らしをするようになり、その際同じアパートへ住むようになった仲である。それぞれバイトして、住む階も違ったので会うことはあまり多くなかったけど心通じる仲間である。
就職をする際、タカ坊は九州から出たくないと言う事でうちの子会社に就職。私も九州を出たくなかったが、就職先がなく、今の会社へ就職し東京へ行くことに。不思議な縁である。タカ坊は、若いうちに結婚し、その際友人代表スピーチをしたが内容は一切覚えていない。
職場は長崎市内であるが、駅から車で30分くらい遠いところにあるため、仕事が終わったら家の近所の飲み屋さんへ行く。鯖などの海産物をたっぷりたべ焼酎を1本開ける。壱岐ゴールドは非常にうまい焼酎である。
その後、またまた近所の居酒屋へ行き、焼酎を飲む。旅のお酒は美味しいね。帰って寝る。
グラバー、原爆、平和公園
朝、8時くらいに起き、風呂に入り旅支度をする。バスで移動し、500円の市電乗り放題を買い、大浦天主堂下へ行く。腹が減っていたため腹ごなしをするためにまず、四海楼に行く。
四海楼はチャンポン発祥の店。ちゃんぽん、皿うどんの考案者は陳平順でこの店の初代。
この店は大きな5階建てで食事、土産など売店がある。11時に入ると既に人が一杯。餃子とチャンポンを注文。小さな器だったが量は結構あり、味はぼちぼち。滅茶苦茶うまいとまではいかないが、そこそこの味だった。11時半を過ぎた頃には満席になり非常に混んでいる店だった。
その後、国宝大浦天主堂(拝観料:300円)へ行き、協会の中を回り、グラバー園(入場料:600円)へ向かう。グラバー園に行く途中に、意味不明なカステラ神社がありシャッターを押す。
グラバーに園に付き、園内を一周する。前日雑誌を買うとグラバー園にハートストーンが2つあると書いてあった。グラバー園は小学校以来であるが、建物はぼちぼちに見て、ハートストーンを探して回った。やっとこさ見つけるが、前の人がなかなかどかず、やっとシャッターショット。触ると幸福が訪れるとのことでタッチする。タカ坊もタッチ。
もう一つのハートストーンも探し当てニヤニヤする。帰りに永久マッチを買う。
その後、中華街を見物して、眼鏡橋を観光。眼鏡橋にもでかいハートストーンがあって、笑ってしまう。女子高生が写真をとっていたが、そのストーンは触らず。眼鏡橋の近くの思案橋で福山雅治が通う店を見て、次の目的地の原爆資料館へ。
原爆資料館(観覧料:200円)で展示されている資料を色々みて、原爆の怖さを再認識。
2時間くらい食い入ってみていた。その後、平和記念公園に行き、平和記念像を見る。タカ坊いわく、この記念像は力道山を元につくったとの事。うそつけーといいながら、一切似ていない銅像をみてしまう。その後、浦上天主堂まで歩いたが、時間的に閉まっていた。暗くなってきたので市電で思案橋へ。
思案橋は長崎一の繁華街とのことで夕食をとることに。美味い海産物と壱岐ゴールドを飲みいい気分になったところで、街で飲もうと思ったが、地元へ帰り飲むことに。
地元に帰り居酒屋で飲む。その後、酒を買って家に帰り更に飲み、爆睡する。翌日は早いが結構飲みすぎた。
軍艦島クルーズ
朝6時半に起き、7時半過ぎに家をでて、長崎港へ。8時過ぎに着き、時間があったため五色うどんを食べる。この五色うどんは非常にうまかった。
軍艦島クルーズ上陸コース(乗船料:4000円、施設利用料(上陸):300円)を支払い船に乗る。
台風が過ぎた後で、この日は非常に海が荒れており、上陸できるか分からないと言われた。前日は出航もできなかったとのことで、荒れた海を出発。港には竜馬伝に出ていた船がいた。行きは船の中で寝ていて気づいたら軍艦島が見えていた。直ぐにシャッターを押す。
なんとか上陸でき、二手に分かれて軍艦島の説明を受ける。ここで軍艦島の説明を少ししよう。
軍艦島は、端島という。端島は小さな海底炭鉱島で、塀が島全体を囲い、高層鉄筋アパートが立ち並び外観が軍艦「土佐」に似ていることから軍艦島と呼ばれるようになった。
1810年頃に石炭が発見され佐賀藩が小規模な採炭を行っていたが、1890年三菱合資会社の経営となり、本格的海底炭鉱として操業が開始された。
出炭量が増加するにつれ人口も増加し、狭い島で多くの人が生活するため1916年には日本初の鉄筋コンクリート造の構想集合住宅が建設され、最盛期には約5300人ものの人が住み、当時の東京都の9倍の人口密度にまで達した。エネルギー革命により需要が石炭から石油に移ったことにで、出炭量も人口も徐々に減少し、1974年1月に閉山した後、4月に無人島になった。
1891年から1974年の閉山まで約1570トンもの石炭を採掘した。海底炭鉱である端島での採掘作業は、海底1000m以上の地点まで及んでいる。勾配はきつく、気温30度、湿度95%という悪条件のもとガス爆発など常に危険と隣り合わせの仕事はとても過酷なものであった。坑内で交わされる「ご安全に」という挨拶に「絶対に事故を起こさない」という気持ちが込められていた。
大正期から朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には徴用と吉田飯場(朝鮮人の吉田が経営する飯場)を合わせて500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほど働いていた。中国人労働者も、1944年(昭和19年)に204人が徴用されてきた。朝鮮人や中国人に限らず日本人にも言えることだが、給料や食事、休日などの虚偽の好条件で騙されてやってきた労働者が多く、劣悪な環境下での作業で事故死・病死も多発し、「島抜け」(泳いで島を脱出すること)や自殺をする者も少なくなかった。ただし、実際に「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、監視する職員に捕まり殺された。労働者、特に朝鮮人・中国人の徴用者は、端島や高島を「監獄島」と呼んだ。端島炭鉱から後に長崎市内の造船所へと移された朝鮮人労働者によると、同じ三菱の経営ながら造船所と端島炭鉱の待遇の差は「天と地の差」であったという。朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容され、作業現場も交代時間も重ならないようにされた。
私が生まれた後の1974年まで炭鉱が操業していたとのことであるが、私の回りに炭鉱もなく、島の田舎暮らしであったため非常に不思議な気持ちである。
帰りは、非常に波が高く船外にいたが、風が強く濡れるとのことで、船内に入るが、便所の近くに座ったため、「うぇっ、うえっ」と声が聞こえもらいゲロしそうになったがなんとか持ちこたえた。
長崎港に着き、歩いて前日に飲み屋で聞いた美味いチャンポン屋共楽園に行きちゃんぽんを食べる。ぼちぼち美味かった。味音痴なのか、リンガーハットが美味く感じる。でも最近のリンガーハットは、スープが少ないのが不満。
その後、長崎駅近くのバスターミナルに行き、博多行きのバスに乗り、長崎の旅は完了した。タカ坊忙しい時間を割いてくれてありがとう。
長崎は坂が多いが、非常に古い町であり、住んでも良いかなと思える街だった。また来たい。