エスペラント雑感・2001年12月



 えーと、前作(?)「エスペラ ント語雑感(2001年1月)」からほぼ一年が経ちました。という時 期での、この言語(を取り巻くモロモロ)の雑感をまとめました。

 思い起こせば(思い起こすな)、「前作」あたりまでは「エスペラント 語」と、「語」をつけてたんですね。つまり、この頃まではまさに初心 者だったということなのでしょう。じっさい、入門書などでは「エスペ ラント語」と書かれたりしています。しかし、「国際補助語」と呼ばれ ることはあっても、この言語の名は「エスペラント」であって「エスペ ラント語」ではないだろうなとある時思い、以後、改めました。「英語 (イギリス語)=イギリス(人)のことば」「中国語=中国(人)のことば」 というのと同じに「エスペラント人のことば」というわけではないから です。


*もくじ*

リ-イスモふたたび
フシギな人人
多国籍の「たのしみ」・〈共通語〉の「よろこび」
夢の〈国際語〉
言語仕様のことは気にならなくなってきたな(笑)
付録・でなすか
付記・カティリーナはゴロツキだったか



リ-イスモふたたび

 もう〈思想〉関連のことがらには触れないつもりでいるのだが、今回 だけちょっと「禁」を破ることにする(8月でや めにした筈なのにもう破っているようでは、この先が思いやられ る)。

 その8月の文章の中で、リ-イスモと いうエスペラント内の言語運動に触れた。この時は考えから漏れて いたが、「性は明示しなくてよいのならしない方がよいだろう」という 思いはずっとあった。世の中には、肉体の性と意識の性が一致しない人 がいるからである。

 肉体の性と意識の性が一致しない人は確実にいて、そういう人はトラ ンスジェンダーとかトランスセクシャルとか呼ばれるらしい(話を単純 にしております)。こういう人たちにとって、性を明示する三人称代名 詞は困惑するだけだろうし、苦しみの元になるだけだろう。性を明示し なければいけない局面というのは本来少ない気がする。しなくて済むの ならしなくていい。

ちなみに「ジェンダー(gender(英))」というのは「社会的な性」という 意味のことばで、肉体の性であるセックス(sex(英))に対置される概念 である。肉体の性は生まれた時に決まっていることになっているが、社 会的な性はその社会や文化の規範といったものによって個個の人間にい わば強制される。「××ちゃんは女の子なんだからお行儀よくしなさい」 とか「スカートをはきなさい」とかいう「暗黙の強制」である。

 ぼくは「ジェンダーフリー」という考え方を〈思想〉の領域と受け止 めて、これには距離をおいている。どこまで考えているものか知らない のだけれど、もし単に「女性を〈女性というジェンダー〉に束縛するな (男性を〈男性というジェンダー〉に束縛するな)」ということだけを 言っているなら明らかに片手落ちなので、というかもしかしたら両手落 ちで、人間の性というのはそう単純なものじゃないということが、トラ ンスジェンダーやトランスセクシャルを見ると判る。この観点からは、 やはり「性別(の役割)というもの自体が〈虚構的〉なのだから、そんな ものに囚われなくていいじゃないか」というものであって欲しいと、ぼ くなどは愚考する。

ただし、そんなことが実現したとして、大多数の人がまともな社会生活 が営めるのかどうかは判らない。「ジェンダー」というものが生まれて きたのが故のないことではないのであれば、それをなくしてしまうと人 間にとって不都合なことも多く出てくる気もする。

 もちろん、ひと括りに「ジェンダーフリー」といってもそれを肯定し たり実践したりする人たちはそれぞれの概念や思惑を持っているに違い なく、「女性を〈女性というジェンダー〉に束縛するな」と強硬に主張 する人が〈男性というジェンダー〉には無頓着であるというのは案外あ りそうだし、「ジェンダーフリー」を唱えながら「肉体の性と意識の性 が一致しない人人」をまるで人間でないものを見るかのように見る人た ちがいてもおかしくない。もちろん、中にはそういう人たちのことも考 えてリ-イスモに賛成する人たちもいるだろう。

 ぼくは人間に差別はつきものだと思っているので、「ジェンダーフ リー」に差別があっても驚かないし、別にそれを非難する気はない。 「差別はいかん」と思うことと、「実際に意識があらゆる差別から解放 されている」こととの間には天と地ほどの開きがある。中には「あらゆ る差別に反対するのでなければならない」といって超人的な努力をした りすでに超人の域に達したりしている人もいるようだけれど、ぼくはあ まり信じない。ぼくが「性の区別をつけない方がいいことがあるなら、 つけずに済ませられるようにできた方がいいだろう」と思うのは、だか ら「差別反対」という観点からではなく、その方が「現実に即している」 だろうという考えによる。

 「肉体の性と意識の性が一致しない」のは、思想の問題ではなく現実 の問題だ。まず第一に、個体発生の局面でそれは起こり得るし、現実に 起こっている。次に、どういうわけだか意識が生じる過程でも起こるら しい。肝心なのは、そういう人が現実にいて、しかもそれはたまた まその人に起こったというだけだ、ということだ。それはあなたに も起こり得たのだし、ぼくにも起こり得たのだし、いや実はぼく自身が そうなのかも知れないし、まだ生まれないあなたの子供に起こるかも知 れないのだ。

 であれば、そういう人人が少しでも苦しまずに済むようにするべきだ ろうとぼくは思う。といって、長年の慣習や因習の上に築かれている民 族語でそれを行なうのには少少無理がある。少なくとも性急な「言語改 造」は慎んだ方がいい。しかし、エスペラントは幸いたかだか百年程度 の歴史しかない、しかも〈人工言語〉だ。ひとつのモデルとして、「性 の区別をつけなくてもよい言語」への道を歩むのは悪いことではないよ うに思う。

 た・だ・し、自分が実際にriismoを使うかというと、今のところはそ の気にはなっていない。riismoは思想する人たちが作っただけあって 〈尖鋭的〉で、従っていささか杓子定規的でもある。「li(男性 形三人称単数代名詞)やsxi (女性形三人称単数代名詞)」など使 わなくても困らない」などと言うけれど、それらが使えて困ることもな いだろうと思っている。だからぼくが使うとすれば「riも使う、liも sxiも使う」ということになって、これはriismoではなく、その方面の 人人から激しい非難を受けることになるのは目に見えている。

 これがismo(主義、信条の類)でなく、言語上の慣習に組み込まれて しまった状態が早く来ることを祈る。できればliもsxiも残したままで。


フシギな人人

 学び始めた頃から、「エスペラントの人人」と接するのは興味津津で ある半面、少少「怖い」気もしていた。思想にひた走る人というのは概 して一途であり、真面目であり、重いコンダラの人であり、そういう人 には概してエキセントリックな人が多い(ここで「エキセントリック」 なんてカタカナ語を使ったが、このようなカタカナ語を使えるのはよか れあしかれ日本語の大きな特徴だろう)。なんで思想にひた走ると一途 で真面目になるのかという問題についてはここではいっさい考察しない ことにする。だからこのテーゼ自体大ウソかも知れない(ぉぃぉぃ)。

 もちろんそういう人ばかりではないに違いなく、ここに記すのはぼく が見聞したごくわずかの例であって、これが日本のエスペランティ ストの平均像というわけではない。このことは強調しておきます。 こんな人はどこにでもいる。どこにでもいる人がここにもいた、という だけのことだ。ここに挙げる例を持って「エスペラントの人は……」と 決めつけるとしたら、それは考えが狭い

 ともあれ〈思想〉に対する偏見を持ちつつエスペラントの勉強に日日 邁進したりさぼったりしているわけだが、ウェブページなどでは「もの すごいことを言うなあ」と思うようなものにお目にかかったこともある けれど、実際にあれっと思うような例に出会ったことはあまりない。あ れっと思い始めたのは、とあるメイリングリストに参加してひと月ばか り経ってからのことだった。

 ある日、ぼく宛てに電子メイルの私信が届いた。

 私信であり、ぼく宛てなのだが、どうも様子がおかしい。その人には ぼくは会ったこともないにもかかわらず、その人はぼくと会ったと思っ て書いている。ぼくをぼくでない誰かと間違えているのだった。その上 で、ぼくの投稿に対してとくとくと自説を述べていた。ただちにぼくは 返信を書き、人違いであることを告げ、このような立派な意見は私信で なくメイリングリスト宛てでもおかしくないと書き、ていねいな感想ま で記した。

 半年が過ぎた今でも、人違いを詫びる返事は来ない。

 これだけなら、「失礼な奴だ」で済む。ぼくだってこんな下らないこ とを半年も憶えているほど暇ではない。憶えているのは、その人がとく とくと展開した持論の中に、「個人が人間として成熟することが民主主 義社会を成熟させることにつながる」という意味のたわけた一文があっ たからだ。

 人違いというのは、うるさいことを言い出せば人格権に関わる、「基 本的人権」の侵害であろう。うるさくしなくても、自分を自分でない誰 かと間違われて気分のいい人間などいやしない。有名人に間違われて気 分よくなったりすることはあるかも知れないけれど、それは例外だ。名 前に使う字を間違われてさえ怒る人だっている。芥川龍之介は書簡の宛 名に「竜」の字が使われているものは中身も見ずに破り捨てたとかいう 話だ。そんなものだから、人違いに気づくと普通は謝るようになってい る。「個人の基礎がしっかり形成されなければ」などとのたまう人間が こんな些細な「基本的人権の侵害」をやってのけて謝りもしない神経に、 ぼくは唖然呆然とした。

「些細な過ちなんだから気にするほどのことはないだろう」という意見 もあるだろう。ぼくも本来ならこんなことは気にしない。が、人違いを した側が言っていいことではない。

 ことが些細であるだけに、これはけっこー大きな矛盾を露呈している のではないだろうか。それともその一文は願いのようなものであって、 本人はまだ個人として成熟していないのだろうか。それならこの一件は 「人として成熟する」ためのいい機会になった筈だ。いずれにしろ、こ んな人間が「人間としての成熟が民主主義社会の成熟につながる」など と偉そうなことを言ってはいけない。おまえの言動は個の尊厳をあたま から踏みにじってるんだよ。

 思想を奉じることと思想を実践することが一致していなければならな いかどうかは微妙な問題だと思うが――山本七平に言わせれば一致して いなければならないようだが――、エスペラントが高らかに主張する 「人権尊重、公平、中立」は、個の生活レベルでも実践されなければ意 味がないものだとぼくは考えている。ぼくだけではあるまい。そう思う からこそ単に言語の使用や普及活動に留まらず性差別反対、言語差別反 対、戦争反対、などの〈運動〉に精を出す人がいるのだろう。であれば、 その人の〈思想〉と〈日常生活の行動〉はシームレスで筋が通っていて くれないと困る。そうでなければダブルスタンダードということになる。 だからぼくは距離を置いているのだ。「差別撤廃は大事な問題だけど、 人違いなんて誰でもしている取るに足りないことだ」という見方もあっ ていいけれど、その「区別」に合理的な根拠はあるのだろうか。いや、 そもそも、それで平気な顔をしている奴にそんな「区別」をする資格が あるとは思えない。

なかなかハゲシイことを言っていますが、ご想像のとおり、ぼくはけっ こー本気で怒っている。〈思想〉の弊害のひとつだと思うからである。

 〈運動〉レベルでいくらいいことを言ったりしたりしていても、実生 活で他人の「人権」に鈍感なのでは、けっきょくその人の〈思想〉が軽 い上っ面のものと見なされてしまう。はっきり言って信用する気になら ない。〈運動〉にいそしむのもいいが、まず自分の生活で実践しろよ、 自分の生活態度をその〈思想〉とやらに照らして反省しろよ、と言いた い。

 まあ、これが私が出くわした「エスペラントの人人」の中でもっとも ショッキングな例のひとつでした。自分が「被害者」だっただけに。もっ ともこれはそんなに大げさなことではなく、ぼくの返事を見て申し訳な く思い謝ろうと思っているうち多忙で紛れてしまった、というようなオ チかも知れない。だからって謝らずじまいでいいとは思わないけどね。

 メイリングリストで見かけたほかの例。

 個人宛ての私信(レベルの、到底人様にお見せすべきでないもの)を 平気でメイリングリストに送ってくる人もいた。最初に見たときは唖然 呆然とした。なぜそれがメイリングリストに配信されるのか理 解できなかった。ちょっとシュールな眺めですらあった。どうやらミス であったらしく(そりゃそうだわな)、「間違いでした」というメイルが 来た。送る前に宛先をよく確認しろよ。ご丁寧なことに、この私信誤配 人間は、その後にも最低一度、驚くべき誤配信をしでかしてくれた。学 習しろよ。

余談。エスペラントとは何の関係ありません。
電子メイルに慣れた人でも、新しいメイルを書くのにいちいち「新規作 成」から始めるのでなく、適当なメイル――宛先にしたい人から送られ てきた手紙――を表示させて「返信」を選ぶ人がいる。
こうすると最初から宛先が設定されているからちょっとは楽、という理 由でそうするのだろうが、メイラーはそれが「どのメイルへの返信か」 ということを憶えているんですね。これは「スレッド(簡単に言えばメ イルの話題)」に関係していて、スレッドを認識するメイラーは、内容 は無関係でも「過去の話題に関連したメイル」と扱ってしまう。
これをやる人に「そういう問題があるから、新しいメイルを書く時には 『新規作成』してくれ」と頼んだら、「自分のメイラーはスレッドを認 識しないから気にしない」という返事が返ってきて驚いたこともあった。 そーゆー問題じゃないと思うんですが。

 9月11日夜(日本時間)、アメリカ合衆国であの「テロ」が発生した。 それから12時間程度しか経たない頃に「米国の『力の政策』の限界をみ る思いだ」と書いてきた人がいた。テロと断じ、その原因が「力の政策」 であると断ずる無神経に驚かされた。

 この時にはこの断定には何の根拠もない筈なのだ。あの光景をリアル タイムで見ていた人はぼくと同様にテロと直観したのではないかと思う が、それからまだ半日後の状態では犯人も動機も特定されていなかった (それどころか12月20日現在ですら、犯人と目される人物は報道では 「氏」と尊称つきで呼ばれている)。それなのになぜ日本に住む個人が 「テロ」と断じ、その「原因」にまで言及できるのか。

 あまつさえ、ただでさえ思いがけない事件に巻き込まれた人に「おま えらの国の政策が悪いからこうしたことが起こるんだ」とも受け取れる 発言を浴びせては、その直前の悔やみのことばを打ち消してしまい、被 害にあった人人を踏み躙ってしまっていると思われても仕方ないだろう。 日本人に「原爆が落とされたのはあんな酷い戦争をしたから」と言うよ うなものではないだろうか。そればかりかこの人は、それに続けて「エ スペランティストが主張する理念に基づいた『心の政策』が見直される べきだ」などという脳天気なおことばまでのたまったのだ。

もちろんみんながみんなそうではないことは強調しておくが、 こういう態度、ものの考え方が嫌いだ。いわば「エスペラント至上主義」 とでもいうのだろうか、ほかの言語、ほかの考え方、ほかの生き方を (おそらくは大した根拠もなく)全否定し、その前に人間世界の現実を 考察してみた気配など微塵も見えない。「心の政策」を一生懸命施して さえテロは起こり得る――そして恐らく間違いなく起こる――のだが、 その時にこの発言者はいったい何と言うつもりなのか。

 あんまりひどいので、ぼくは「『力の政策』とは何か、本当にそれが テロの原因なのか」と問うメイルを書いた。返ってきたのは返事になっ ていない感情的なことばの羅列だった。ぼくは重ねて「公式には犯人の 特定がされていない段階で、テロの動機が事実『力の政策』であるかの ように発言したのはなぜか」と問うた。なにしろ「草の根の国際交流」 を唱えるエスペラントである。何かのつてがあって、いち早くそうした 情報を得たのかも知れない(それなら、そのことはエスペラントの意義 を訴えるとてもよい材料になる)。しかし、返事は返ってきていない。 たぶん発言者は何の根拠もなく単なる思い入れで「今回のテロの原因は アメリカ合衆国の『力の政策』である」と口走ったのだろうとぼくは解 釈している。その人が「反アメリカ合衆国感情」を持つのは勝手だが、 現実のテロ事件にそれを投影し、独断を事実にすり替えて発言するのは 勝手では済まされないだろう。

それらのメイルは今でも残っている。改めて読んでみたが、反テロの立 場からのことばはひとかけらもない。「反アメリカ合衆国」「反アメリ カ合衆国的帝国主義」で凝り固まっていると思われても仕方のない口調 になっている。
また、ぼくに対する返事の中で、さすがにその人も「エスペラントだけ で世界が平和になると思うほど私も単純ではない」とトーンダウンして 見せた。それなら最初から「エスペラントのような考え方が見直される べきだ」などと言うべきではあるまい。事件発生から半日しか経ってい ない時に。

 事実を調べず、思い込みに頼って情緒だけでものを言っているわけで、 これでは60年前の日本人の態度と大して変わらない。こんなメンタリティ で太平洋戦争にのめり込んでいったあの頃の日本人を糾弾したって説得 力がない。それ以前に糾弾する資格がない。と、思わず話が逸れちゃっ たが、どうもこれが「日本人エスペランティスト」のひとつの姿なので はないかと思うようになっている(せめて「日本人」の限定つきである よう祈る)。

 考えてみればそれは当たり前のことだ。少なくともそうであっても全 く驚くには当たらない。エスペラントは素晴らしいことばかも知れない が、それを使う(ことを選択した)からといってその人が素晴らしい人で あることを保証するわけもなく、個人の言動にはやはり「民族性」とか、 生まれやら育ちやらのようなものが強く出るのではないだろうか。たか が言語にそれ自体で人間性を変えたり民族性から脱却したり普遍性に導 くほどの力がある筈はなく、それならば日本人はエスペラント話者であっ てもやはり日本人であるに違いない。

 少し前にはこんなメイルも見た。あるメイリングリストのいわゆる 「オフ会」の報告だったのだが、それに寄せてのおことばが振るってい た。(a) パソコン通信の世界では、同じプロバイダーなのでオフ会があ る、(b) しかしインターネットではメイリングリストの参加者がオフ会 をやるということはあまりない、(c) ところがわれらがメイリングリス トはオフ会を開催した。

 これには、この発言者がコンピューターやネットワークのことをろく に知らないことを窺わせるいくつかの事実誤認が含まれている。

  1. まず、パソコン通信の世界では「プロバイダー」ということばは使 わない。このことばはインターネットの商用サービスとともに、 「インターネットサービスプロバイダー」という用語として現れた。 ネットワーク接続サービスを供給するわけである。 それを逆に適用してパソコン通信の胴元を「プロバイダー」と呼ぶ ことも不可能ではないが、少少無理があるように思う。パソコン通 信は包括的なサービスであって、それに接続するかしないか、どの 胴元と契約するかで得られるサービスがまったく異なるからだ。
  2. 「同じプロバイダーだからオフ会がある」は、なんでこんな誤解を するのか理解に苦しむ。オフ会を開く理由が「同じパソコン通信業 者と契約している」でないことは自明であろう。
  3. 「メイリングリストの参加者がオフ会をすることはあまりない」も 完全な誤解。というか、ものを知らな過ぎる。

 こんな事実誤認(優しく言っている)に基づいて「が、われわれはオフ 会を開催したのでぇす。すごいでしょ」と自慢めかして言われても、何 の自慢にもなっておらず、見苦しく、恥ずかしい。安易な一般化は現実 を見誤るもととなる。ましてそれが無知に基づく一般化なら論外だ。ま た、自分たちを根拠もなく特別視する傾向は、エスペラントにとって害 になりこそすれ益をもたらすことは決してない。

 つい最近には、これはメイリングリストではなく雑誌の記事だけれど、 信じられない文章を見かけた。エスペラント文を日本語との対訳つきで 読ませるコーナーで、古代ローマの文章(のエス訳)が題材にされていた。 共和政末期に「カティリーナの陰謀」と呼ばれる事件があったのだが、 その際のキケロによる有名な演説である。仰天したのはその注釈だった。

 ぼくは塩野七生の『ローマ人の物語』を読んでいるが、第四巻「ユリ ウス・カエサル ― ルビコン以前」の104ページからの一節でこの「カ ティリーナの陰謀」を扱っている(新潮社版)。今回改めて読み返した が、そこで描かれているカティリーナはゴロツキとはとても言えない人 柄だし、「陰謀」もカティリーナ個人の問題からのみ起こったわけでは ない。ぼくはその記述を信用する。

 カティリーナをゴロツキと断言する筆者はどのような史実を踏まえて こんなことを言っているのだろう。いったいこの人は古代ローマについ てどれだけのことを知っているのか。いくら短い文章とはいえ、間違い を書いていい筈はない。不勉強だというなら考えものだ。筆者は日本の エスペラント界では有名な人だ。そういう人の発言なら、何も知らない 人は鵜呑みにしてしまい、間違いの拡大再生産につながる恐れが大きい。

 エスペラントにまつわる言説を見ていると、民衆という存在を至上の ものとしている雰囲気が感じられる。絶対的に民衆の立場に立つなら、 上のような「貴族=悪いヤツ」みたいな単純なものの見方も平気ででき るのかも知れない。だが、そんなものの見方で単純化されては歴史がい い迷惑だ。いくら「民衆至上」だからといって間違った歴史認識を広め てよいということにはなるまい。それではあの「つくる会の教科書」の 歴史認識をとやかく言えないのではないか。(あっちは現代につながる わが国のことだから許せず、こっちは古代ローマのことだからいいのだ、 では、論理ではなく感情だ)

 あるいは、言われるように、「革新主義者」は歴史を軽視するものな のかも知れない。この、平板で表面的で単刀直入的で一刀両断的な文章 を見ていると、それを信じたくもなってくる。エスペラントは人類の歴 史に対する挑戦のひとつでもあるから、何千年も前の過去なんかにかか ずらってはいられないのかも知れない。それだったらしたり顔でヨーロッ パの古典など持ち出さなければよい。

 それにしても、筆者がどのような歴史の知識を持って「カティリーナ はゴロツキ」「カエサルも同じ穴の狢」と言い切ったのか、不思議であ る。知りたい。(そうそう、これについて問い合わせをしようと思って たんだっけ。何か返事 があったらお知らせします

相対化の原則によって、「エスペランティスト」にとってはぼ くのような人間こそ「この言語の理念を理解もせずに単なる言語として 振り回すばかりか、人の発言に冷や水を浴びせていい気になっている厭 な奴」ということにでもなるだろう(^^)
ものの見方というのはそーゆーものであります。なぜわざわざこんなこ とを書いたのかを説明しておこう。

エスペラントが素晴らしいもので、これを使えば人間世界のあらゆる不 合理、不条理、悲劇がすべて解消される、少なくともその可能性がある かのごとく考えたり、言ったりするのは、ぼくは欺瞞だと思っているか らだ。
エスペラントという言語は素晴らしいものかもしれない。しかしそれは 言語に過ぎず、それを使うことによって何がもたらされるかはひとえに 使用者の人間性に依存している。「たかが言語」というのはそういう意 味だ。
すばらしい人間(言い換えれば、個人としての基礎がしっかり形成され ていて、成熟した人間)が使えば、素晴らしい世界が描かれるのかも知 れない。しかし、そうでない人が使うなら、所詮大したものは得られま い。じっさい、エスペラントの世界にも詐欺まがいのことをするような 「いかがわしい奴」はいるらしい。さいわい日本人ではないけれど(と 言ってしまうけれど)、「この人には注意」なんてメイルが流れたりし ます。

エスペラントは素晴らしいことばかも知れない。この言語が内包する (と言われている)理念、理想が人の心を打つことはあるだろう。それ らが人の心や生き方を変えたり、影響を与えたりすることもあるだろう。 しかし、だからといってエスペラントを使う人が自動的にすばらしい人 間であるわけではない。そうなるかならないかはその人次第である筈だ。 みんな普通の人間なのだ。上に挙げた逸話たちは、エスペランティスト といえども普通の人間であることの例証である。当たり前のことだ。当 たり前のことなんだけれど、初心者向けの紹介とかではこうしたことが 忘れられがちだから、敢えて書き留めておく。

 ぼくの過去の随筆を読んで、「エスペラントってあんがい面白いかも。 やってみようかな、どうしようかな」と思ってくださっている方がいた としたら、こういう人たちがいることを知ってショックに思っているか も知れない(無理もありません。ぼく自身ショックだったのです)。先に も記したように、こういう人ばかりでないことは強調しておき たい。むしろごく少数なのだと思う。

 最初にも記したように、エスペラントに限らず、人がたくさん集 まれば、中にはこーゆー人人もいます。世の中には実に多くの人が いて、そして、人間とは自然に似て多様なものですから。逆説的に、 「そーゆー人たちが世の中には確実に存在する」ということを知るとい う点でも、この言語を学ぶ意義はあるわけです(^^)

 そして、何より、エスペラントは日本人だけのものではありません。 世界にはもっと多くのエスペラント話者がいる。「活動の場」を日本に 限定する必要はちっともないんです。


多国籍の「たのしみ」・〈共通語〉の「よろこび」

 「エスペラントを学んで何になるのか」という点を相変わらず〈課題〉 〈懸念〉に挙げる人が多いだろうと思う。この懸念が解決しないと、勉 強を始める人もそうは増えないだろうことも間違いない。単にことばそ のものを知るためだけにことばを学ぼうなどと考える人――こーゆー人 を「ディレッタント」といい、ぼくもそのひとりです―― はそう多くない。やはり何かしらの「実利」がなければ食指は動かない ものだ。

 あいにく「実利」にはちょっと遠い(人によっては程遠い)のだけれ ど、「ネットワーク時代」の現在、ニューズグループメイ リングリストを使ってエスペラントを楽しむという手があ る。ごく平均的な日本人にとっては、「世界と直接触れ合う」 だけでも有益ではないか。これについては 『のほほんエス ペラント活用法』にまとめてみた。興味のある人は読んでみてくだ さい。

 こうした媒体で「世界中の、国籍の異なる(とうぜん生まれも育ちも 生活も考え方も異なる)人たちがそれぞれ思い思いのことを述べている さま」を見るのは、しかもそれがひとつのことばでなされるのを見るの は、いろいろな意味で刺激的だ。お勧めします。

 もちろん、ぼくもこれまでにも言っているように、それが英語でなさ れるのだっていいのかも知れない。しかし、実際にときどき英語やフラ ンス語の投稿などもあるけれど、民族語はやっぱり難しい。ニュアンス の宝庫だし、文を解釈するのにどうしても成句や言い回しの知識が必要 になるのが非母語話者にはどうしたって辛い。「英語を勉強して海の向 こうの英語国民と文通するんだ、世界中の人と話をするんだ」などとい う話をよく聞く。その感想でしばしば言われるのが、「向こうは達者な 英語でぽんぽん書いてくるが、こちらの英語は拙いので、気後れしてし まう」ということ(ぼくが購読しているメイルマガジンの筆者にそう書 いていた人がいるから間違いない)。エスペラントだと、こうした気後 れを感じる必要がないんですね。

 メイリングリスト、ということからはちょっと逸れるけれど、あの米 国での「テロ」の時に真っ先に思ったのは「現地の人たちはどう見てい るのか知りたい」「米国内のイスラム関係者、世界中のイスラム関係者 はどう思っているのか聞きたい」ということだった。こういうことは、 実は通り一遍の報道では案外伝わらない。「マスメディアは真実を報道 する」という謳い文句が虚偽であることは今では公然の事実だし、CN Nだけ見ていれば世界を語れるなんざ脳天気もいいところ、というのも 常識だ。今の時代なら営利メディアのフィルターを通さない「生の声」 を集めるのは充分可能の筈だし、エスペラントならそれが全世界レベル でできる、少なくともそれだけの潜在能力と人的ネットワークがある。 そんなことを思った。

 ともあれこうしたメイリングリストを読んでいると、「ああ、世界に は本当にさまざまな人がいるのだなぁ」としみじみ感じることは請け合 います。これは知らずにいるより知っておいた方がいいことだと思う。

 気づくことは他にもある。

 「エスペラントはヨーロッパのことばに近いから、ヨーロッパ諸語を 母語にする人ならたやすく習得できる」というのが日本人の先入観だと 思うが、実は意外とそうでもなさそうなのがまず判る。「それは誤解だ」 と、たしかポーランドの人が言ったことがあったけれど、実際にメイリ ングリストで「苦闘」している姿を見ると、本当なのかも知れない。

 綴り間違いは誰にでも(上級者にも)ある。文法の間違いも誰にでも (上級者にも)ある。ぼくなどはひとつ文を書くたびにそうした間違いの 嵐が吹き荒れるほどだが、ヨーロッパ諸語を母語とする初心者にもけっ こう多いように見える。いや却ってその方が多いかも知れない。それは それは、ぼくなどから見てさえ「なんでこんな単純な間違いをするかな あ?」と思うようなことをしでかしている。「ヨーロッパの諸語に ほどほど似通っているけれど、でもそこかしこで異なる」からなの だろうか。だとしたらこれはザメンホフの作戦勝ちだ。

 エスペラントには「対格」という、ちょっとした格変化がある。英語 には代名詞を除いて格変化はないから、英語国民はまずここで躓くよう だ。英語の感覚では「正しい」んだけど、という文を書いて上級者に指 摘されたりしている。この眺めは、はっきり言っちゃえばちょっぴり気 味がいい。非ヨーロッパ語を母語とする身には「あ、そう。対格ってい うの。ふ〜ん」で丸呑みできるからだ。まぁ、こちらは一年やってそこ そこ使える自信もあるからかも知れない。

 しかし、感心するのは、中には始めて一月とか一週間とかで早くも使 い始める人がいることと、そういう人たちは間違いを恐れないところだ。 エスペラントで書いたメイルを送るに留まらず、エスペラントのウェブ ページを作ったり、エスペラントの詩を書いてきたりする。綴りも文法 も間違いだらけなのだが、臆するところがない。特にアメリカ人にそう いう人が多いような気がする。行動的というのか、開放的というのか。 こうした態度は日本人(エスペラント学習者)も見習った方がいいと思 う。見習えばいいというものでもないけれど、なぜだか他人には判らな い理由で使うのを恥じたり「ワタシはeterna komencanto(永遠の初心 者)なんだもんね」と言ってのけたりするのよりは数等マシだ。

 サッカーの技術をいくら本で読んで勉強したって、実際に試合をしな ければサッカーをする楽しさなど判らない。練習を熱心に重ねてさえ、 本当の試合を経験しなければ本当に使える技術や感覚は身につかない。 プログラミング言語だって、いくら文法を知っていても実際にプログラ ムを書かなければ、楽しみも難しさも判らない。料理だって処方箋を読 んで判った気になっていても実際に要領を体で憶えなければいいものは 作れない。囲碁だってそうだ。自然言語だって同じことなのだ。そう思 えば、とにかく使ってみるって気になると思うのだけれど。


夢の〈国際語〉

 エスペラントは「国際補助語」と自称しているが、これは言い得て妙、 というか、よくぞ言ったと思う。これは既にザメンホフが言ったのだと 記憶する。それが本当であれば、ザメンホフはこの点でも偉かった。

 「国際語」「世界語」なんて、(まだ当分は)無理なんじゃないか。全 世界の人がひとつの言語を共有してそれで意思疏通を済ませるなど、永 久機関と同じような、人間の見果てぬ夢のひとつではないだろうか。 「国際語」はもしかしたら人間性に反する行ないであり、構造物なので はないだろうか。この言語を勉強して、また下手なりに使ってみて、今 はそんな風に感じる。

 人間とは――あるいはもしかしたら生物とは、どうしても身近にいる ひとかたまりで〈群れ〉をなす傾向があるように思う。そして、こちら のひとかたまりとあちらのひとかたまりとの間には、当然、差異が生じ る。生物の進化はそうしたひとかたまりの遺伝子プールの中で育まれて きたわけだが、民族とはもしかしたらミームにとってのプールなのかも 知れない。そして、今の世界はまだ、すべての民族のミームがひとつに 融け合うには大きすぎる。〈群れ〉と〈群れ〉との間には互いに知らな い部分が多すぎる。現在あるこの多数の〈群れ〉の間の夥しい差異を埋 めるには、ひとつの言語(それも、できてまだ百年ほどしか経っていな い)では到底済まないと思うのだ。

 文明がもっと発達して、日本からヨーロッパへ三十分で行ける、ある いは気軽に歩いて行けるようになり、手帳くらいの大きさのコンピュー ターで世界中のウェブページをさくさく覗けるようになれば、そのくら い世界のすべての場所が身近になれば、あるいは「世界中とひとつのこ とばで」ということが実現するかもしれない。そうなるまでは、「国際 補助語」で我慢するのがせいぜいではないか。それで橋を渡ってから先 は、互いの民族語による交流の方が現実的なような気がする。もちろん ただの思弁ただの直感なので、根拠はかけらもない。

 この「橋渡し語」が発展ないし変化して、民族の匂いが薄まったら、 つまりいろいろな民族の匂いを取り込んだら、いずれは「国際語」「世 界語」にふさわしいものになっていくのかも知れないけれど。


言語仕様のことは気にならなくなってきたな(笑)

 そういえば以前は「みんな文法が合理的とか言うけど、大して合理的 じゃないじゃないか。不合理なことだってあるじゃないか」などという ことが気になっていたけれど、気がつけば、この言語を使うということ に興味がいって、そんなことはどうでもよくなっていた。

 もう少し正確に言おうとすれば、容認できるようになったということ かも知れない。おそらく知らない人を惹きつけるためなのだろう、「合 理的な文法」というのがあまりに強調されているので、学び初めの頃に はそれが気に障った。でも実際に学んで使って馴染んでみれば、少少不 合理であっても使えてしまうものだ、民族語を使いこなしてしまってい るのと同じように。

 エスペラントも自然言語である、というのがぼくの考えなのだけれど、 自然言語であるなら文法や用法のあちこちに〈不合理〉なところがあっ て当たり前である。むしろ、ない方がおかしいとさえ言えるだろう。人 はみな不合理だらけの世の中に辛うじて理を見つけたり理を作り出した りしてなんとかやっているのだ。

 今後知らない人への入門を書く人には、「合理的っていってますが、 実は完全に理詰めということではないのです」といったことを明記して 欲しいと願う。つまらない誤解は避けた方がいい。それが原因でエスペ ラントに馴染めなかったり挫折したりする人がいるのだとしたら、もっ たいないことではないか。

 そんなことより重要なのは、意思疏通の手段として実用になるという こと、それだけの歴史的な深みを持ち、話者人口の広がりを持ってい るということだろう。


付録・でなすか

 「Mi ne estas Esperantisto, eble.」 で書いたことの続き――

 「denaska esperantisto」と呼ばれる人たちがいる。

 denaskaというのは、「de (由来を表す) + nasko (出産)」を合成し た語の形容詞形で、「生まれつきの」といった意味になる。 denaska esperantistoとは、生まれつきのエスペラント話者を指す。

 この言語を学んでみれば誰でも気になるんじゃないかと思う。エスペ ラントは〈人工言語〉であり、この言語を母語とする集団は今のところ 存在しない(と思うんだよな)。が、親がエスペラント話者ならば、第 二世代(以降)には、エスペラントを母語(のひとつ) とする人間が育ち 得る。ではそういう「生まれながらのエスペラント話者」は存在するの だろうか。存在するなら、それはどういう人たちなんだろうか――

 実際には、これら「生まれながらの話者」は思うよりたくさん存在す るらしい。どんなことを思いどんな生活をしているのか、話を聞いてみ たい。ぼくは、かわいそうだと思う。

 まず、その人の言語的アイデンティティはどうなっているんだろう。 エスペラントだけを学んで生活できる筈はないから、両親のどちらかの (あるいは両方の)母語も学ぶのだろう。とすれば、バイリンガルないし りトライリンガルとなるわけで、自分の言語的アイデンティティに思い 悩んでもおかしくない。

 まぁこれは両親の母語が異なれば起こり得ることなので別に珍しくは ない。が、それに加えて困っちゃうのは(ぼくが困っているだけです が)、エスペラントには例のさまざまな〈思想〉がついて回っているこ とだ。教えた親がぼくのような無思想派ののほほニストででもない限り、 denaskaの人はこれらの思想を教え込まれて育つことになる。言ってみ れば生まれながらに洗脳されてしまうわけで、何と言ってもこれがかわ いそうでならない。

 てなことを言うと「この素晴らしい〈思想〉たちを悪く言うなど許せ ん」とエスペラントの人たちに猛攻撃を食らうわけであるが、しかした とえば日本では思想の自由は憲法で保障されている。だからエスペラン トの〈思想〉に共鳴する人もいるし、そうでない人もいる。生まれなが らにこの思想たちを教え込まれることは、他の思想、さまざまなものの 見方や考え方を知り、吟味する機会が奪われてしまうということだろう。

 成長してさまざまな出会いを経てなおそれらの思想が揺らがなければ よいけれど――ホントによいのかな?――、疑問を持ってしまったとし たらかわいそうだ。親を恨むかも知れない。特に努力もせずにエスペラ ントを話せてしまうことを呪うかも知れない。エスペラントに堪能な反 エスペラント主義者が登場し、エスペラント撲滅運動の先頭に立つかも 知れない。そうなったらこの言語にとっても不幸だし、そうなっても誰 も彼または彼女を責められない。

 願わくは、子どもをもうけたエスペラント話者は、その子にエスペラ ントを教えてもいいけど、あくまでも第二、第三言語として教えますよ うに。そして〈思想〉などは教えませんように。だいたい親が子どもの 思想教育をしようなどというのは親の分限を超えている。親はただ、子 どもに人として生きていくのに必要なことと、「人違いをしているのが 判ったらきちんと謝る」といった(笑)礼儀作法のしつけをすればいい。

 別の面からも弊害はあると思っている。いまエスペラント原作のある 小説を読みつつある。作者はdenaskaの人だそうだが、これに版元が寄 せている前書きにいわく、「この作品において、エスペラントは表現力 と柔軟性の高みに達している。これは生まれながらのエスペラント話者 のみが可能なことである」と。われわれ二次的なエスペラント話者には こうしたことは不可能だと言っているのだ。「誰にでも(比較的)学習が 容易」な言語であるにもかかわらず、生まれつきとそうでないものの間 には決定的な差があると言っているのだ。これは、「言語差別」を断罪 する論法の裏返しじゃないか。denaskaの人の存在によって、エスペラ ント話者内にも差別が生まれると言っているのだ。

 手放しでdenaska esperantistoを賞賛するのも困ったものだが、エス ペラントはそれ自体で無条件に公平・中立を保証するのではなく、「み んなが同じ条件で始める」からこそ意味があるということがよく判る。 であれば、生まれた子どもに母語と同じようにエスペラントを教えると いうのは止めた方がいいとは言えないだろうか。人がこの言語を選びと るのはあくまでその人の自由意思で、自らの責任によってであるべきで はないだろうか。


付記・カティリーナはゴロツキだったか

(2002.01.14)

 本文で述べているが、あるエスペランティストが「(古代ローマ共和 制末期の)カティリーナなる貴族はゴロツキ同然」「カエサルも同じ穴 の狢」と断言したことについて、「どのような文献をもとにそのような 記述をしたのか」と筆者に問い合わせた。幸い返事をもらえたのでその 顛末を記す。

 返事(要旨)。

自分はその時代のことについて無学であり、通説ないし常識に従って書 いてしまった。カティリーナに対するキケロの攻撃が間違っているとい う意見があることは知らなかった。塩野七生の本はかねて読みたいと思っ ていた。これを機会に読みたい。当該部分は撤回するということでいか がか。
また、「ゴロツキ」のような下品なことばを使ったことをお詫びする。

 ぼくからの返信(要旨)。

誌上で「通説ないし常識に従って書いてしまった」旨を述べるとのこと であるので、撤回には及ばない。 しかし、「通説、常識=真実」とはいえないことは、筆者ほどの人間な らよくわきまえている筈である。
当該記事の掲載誌はりっぱな公刊物といってよい位置づけのものである。 そういうものに寄稿する以上、対象に対する書き手の姿勢や見識が問わ れるのは必至であろう。歴史を知らない者がその記事を読み、そのまま 受け止めてしまったらどうなるか。巡り巡って日本人エスペラント話者 の無知が嗤われるようなことになったら、誰もうれしくないだろう。

 さらに返事(要旨・原文はエスペラント文)。

塩野七生の著作を読み、自分の文章が一方的にキケロの演説に依拠して いたことを認めた。よって、カティリーナに関する部分、ヒトラーと比 較した部分を撤回する。

 ぼくとしては筆者が「貴族=平民を抑圧する絶対悪」みたいな単純か つ極端な史観に基づいて書いたのだったら面白かったのだが、「筆者の 無知」であっけなく片がついてしまった。短い時間に、正月を挟んで忙 しくもあったろうに、塩野七生の著作を(少なくとも当該部分は)読ん だ筆者の勉強する姿勢は尊い。ととりあえず言っておこう。

実はちょっとひっかかるところもあり、当該誌上でなされる「撤回」が どのようなものか見てから、また問い合わせようかどうしようか考える ことにする。(カエサルが「平民の味方のふりを装うた独裁者」という 文言は撤回しないのかなぁ?)

 それにしても、「通説、常識に従って書いてしまった」と言われたら どうしようもない。そんなことは言って欲しくなかった。確かに誰かが 大きい声で「黒」と言えば、白いものも黒く思われてゆく。ましてその 声の主がキケロのような「権威」ならなおさら。それが人間の、民衆の 本性のひとつだ。だが、現代エスペラントは、そのような「大きい声」 への異議申し立て、kontrauxdiro(反論)という性格を自らに課している のではなかったか(そうではない、と言う声もあるだろうけど)。世間 に流布している通説、常識が時として〈真実〉から程遠いものであるこ とは、エスペラント話者ならばよく知っている筈だ。エスペラント自身 がそうした「通説」や「常識」に彩られているからだ。「エスペラント のような人工的に作られた言語に、人間の感情を表すなどできる筈がな い」といった「通説」に対して、エスペランティストは躍起になって反 論するのではないか?

 もっとも、人間とはそうしたものだ。誰しも自分が当事者であるよう な「誤った通説・常識」には真剣に反駁するけれど、第三者であったり 知らない分野での「通説・常識」には無関心であるものだ。それも人間 の本性のひとつだと思う。話は飛ぶが、それは偏見や差別と通底してい ると思う。自分が当事者であったり身近に感じる差別問題には真剣になっ ても、そうでなければそもそも差別にすら気づかなかったりする。そう いうものだ。

 それにしても文章を人目に曝すというのは恐いことよのう。のう、越 後屋。どうじゃ。そうであろうが。のう。どうじゃ。そうであろうが。

 今の時代、ある個人が世界のすべてのことに精通するなど無理に決まっ ている。文章を書いたり発言をしたりすれば今回ぼくがしたような kontrauxdiroをいつ食らうか判らない、ということだ。他人事ではない よな(苦笑)

 幸か不幸か、ワールドワイドウェブというのは、何を書いて「発表」 してもよくそれについての責任をとらなくてもよい(2002年1月現在) という、民主的を通り越して「無法地帯」とすら言われる場所である (なぜ「民主的」を通り越すと「無法地帯」になるんだろ)。だからっ て言いっ放しはいかんと個人のモラルとして考えているので、文章内容 や発言には充分気をつけているつもりなのだけれど、イヤ、怖いもので す。

本文の当該箇所へ


あたまへ


(おわり ―― 2001.12.20)
(2002.01.14付記)





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