4.神戸市東灘区御影本町2−5の道標

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神戸市東灘区御影本町2丁目5 東西の道から北に道が分岐する四辻の北西部に南を正面に建つ
(国道43号線北側、東御影交差点と浜中交差点の中間)
山型角柱 116x30x19p(頂高10p)
N34.711401 E135.258678


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南面
┌─―――――――――――――――――┐
│従是住吉              │
│      迄九丁四十五間     │
│ステーション            │
└――――――――――――――――――┘
(迄の旁の「乞」は「占」となっている)

東面
┌─―――――――――――――――――┐
│    嘉納治良平         │
│ 周旋人              │
│    宮田為介          │
└――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――┐
│明治十四年六月建之         │
└――――――――――――――――――┘


(明治十四年は西暦1881年である。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では東灘区14)
(Wiki住吉駅に「1874年(明治7年)6月1日開設」とあり、明治14年建設と矛盾は無い。)
(この地点から9丁45間=1060m真っすぐに北に進むと現JR東海道線の北辺りとなり、やや東の、現住吉駅
 までだと1.3qとなり距離が一致しない。間数まで表現している事を考えると数mの誤差程度で考えねばならず、
 この不一致は看過できない。住吉ステーションが現JRの住吉駅であるとすると、移設されたものと思われる。浜街
 道(現43号)沿いでピタリの距離を示すのは、ここから東350mの東灘区住吉南町5丁目1−1
N34.711195 E135.262505
 辺りの四辻北西部で「住吉南町4の西側道標」の北側になる。
  下記に有る解説板の「西国街道」をキーに当時の西国街道を見ると、東灘区御影本町2丁目17−2の南東角
N34.714318 E135.257438
 辺りとし、阪神御影駅の東を北に進み、旧西國街道で東に向かい、住吉東町に入る手前を北折すれば一致する。
 此方は現在地より北へ350mの地点となり、距離的な優位性は見られないが、移設に当って、「明治の頃の西国街道
 なら、浜街道にあったものだろう」として此処に移されたと穿った見方をすれば、こちらの可能性が高いか。
  因みに、阪神御影駅は明治38年(1905)4月開業らしく当道標建設時には駅は無かったと思われる。)
(「周旋人」の表現は「三田市東本庄」明治30年や「尼崎市東園田町4」大正5年がある。施主であろうか。)

(西側にある解説板)

 住吉ステーションの碑

 明治七年に大阪〜神戸間に鉄道が建設され、
その間に神崎・西宮・住吉・三ノ宮の駅が設けられた。
この碑は、西国街道を通る旅人に住吉駅を教える
ために、明治十四年六月に建てられたもので、表面に
「従是住吉ステーション迄九丁四十五間」とある。

  東灘歴史掘り起こし隊
  東灘区役所

(明治43年測図の地図では、西国街道は現阪神電車の通るここより北の道となり、現道標のある道は御影村内を通
 る細道として描かれているが、旧西国街道浜街道であろうと思う。よって解説板の表現は的を得ていない。
  現在地から東に浜街道を採れば、上記「住吉南町4の西側道標」を過ぎ、松原交差点で明治の西国街道と合流後
 「魚崎西町3の道標」へと続く。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を東に望む
 奥(北)阪神御影駅へ  左右は現43号  奥(東)西宮へ
 左右は西国浜街道】  右(西)神戸へ】  左、住吉駅へ1.3km】

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【4.道標南面拡大 【5.道標南面拡大 【6.道標東面拡大
 「従是住吉…」のうち  「九丁四十五間」  「周旋人」
 「迄」の彫が浅い】  「間」=1.8m】  新しい表現か】

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【7.道標西に建つ解説板
 東西の道は江戸期の浜街道
 明治の西国街道ではない】

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【8.神戸市東部の道標】
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