5.尼崎市西川2の地蔵道標

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尼崎市西川2丁目25 南北の道に東からの道が突き当たる三叉路の西部に東を正面に建つ
(有馬街道は東から来て北へ折れる)
ほぼ頭丸型(四陵有)角柱 127x31x南面31.5p(頂高3p)(台石高12pは含まず)(像部36x25p彫り深さ5p、蓮座部0.8p盛上り)
N34.736353 E135.445894


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東面(正面)
┌─――――――――――――――――┐
│     右 伊丹中山      │
│(地蔵像)            │
│     左 尼崎西宮      │
└―――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――┐
│南無阿弥陀佛隆光 (蓮華像)   │
└―――――――――――――――――┘

北面
┌─――――――――――――――――┐
│    施主堺          │
│左大坂              │
│    神南邊          │
└―――――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘


(正面頂部を光背型に削り込み地蔵坐像(蓮台)を陽刻)
(『尼崎の道標を訪ね歩く』平成27年荒木勉では16)
(『尼崎のみちしるべ』1980年尼崎郷土史研究会では、祠は無く、クランク状のコンクリート塀の前の、台石(高さ30p、
 巾62p)上に建つ写真が載る。)
(建立年は、文化元(1804)以前又は、天保12(1841)以前とする資料有り、
 その資料には、「建立年は太田蜀山人『革令紀行(1804)』の記載により推定、又は
 施主の神南辺隆光(道心)は天保12に没するまで諸国に道標を建立した堺の出家者であることによる」とある。
  革令紀行は、近代デジタルライブラリの95コマで参照でき、そこには、
 「三津屋村をすぎ、かぢま村をへて、神崎川あり、船より上れば尼ヶ崎より馬役遠見のもの来れり、この所人馬の継場なり、
 右中山左尼崎道とゑりたる石ぶみたてり、堤を上りて左にゆけば、自是南國役堤と記せる杭あり、」とあり、
 この「石ぶみたてり」を当道標としたものであろうと思われる。
  明治十八年測量の地図を見ると、堤防はほぼ現在の位置と変わっておらず、記述の順序通りとすれば、南保の見た石碑は、
 堤防より内とすべきだが、河川敷には分岐する道が無い為、この道標としてもよいかもしれない。
 但し、道標は建て替えられることもあり、上記記述により建立年とするのは早急すぎると思う。何故なら、堂内に建つ(前
 述の『尼崎のみちしるべ』1980年に祠の無い写真と、祠中の2種の写真があるが)ている事もあるが、道標の状態が、非常
 に綺麗であり、二百年を経ている様に見えない事と、もし堤防内(河川敷)に建っていたとしたなら、洪水の為に建て直さ
 れた可能性が大であると考えるからである。
  しかし、施主による、建立年考察と、元々の建立位置が洪水の影響が無い所で、早くから堂内に置かれたものなら、今の
 状況を保っていても不思議はなく、天保12年以前が正しいものかもしれない。
 因みに、「神南辺(大道心)隆光」は、堺の元鋳物師で各地に石造物等を建立した人らしく、中山寺のお百度石や、竹内街
 道の羽曳野市に残る道標や、茨木市安威の大念寺には、天保5年の銘がある供養塔等も残るらしく、今後それらとの比較調
 査もしてみたい。
  尚、國役堤とは国役普請の堤で名称ではないと思われ、こちらは道標でなく、領界碑の様なものと思う。)
(文化元年の6年前ではあるが、国会図書館デジタルライブラリの、『摂津名所図会』(寛政10(1798)年刊)[8]の[49]の、
 コマ番号36に、当時の「神崎の渡し」の、絵図があるが、この道標は描かれていないようだ。)
(南横に建つ、道標ではないと思うが、「元治…施主梶浦氏」とある石標は、2017年6月には著しく折れていた。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を南西に望む
 正面白い小堂中にあり  右奥(北)伊丹へ  白い小堂中が当道標
 有馬道は手前から右折へ】  右手前(東)大坂へ】  左奥(南)大物方面へ】

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【4.東面下部拡大 【5.北面下部拡大 【6.頭頂部拡大
 「中山」の部分  「施主堺」  ほぼ丸型であるが
 「山」の下半は見える】  「神南邊」とした】  四隅は少し陵を残す】

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【7.南隣の石碑
 左2014年、右2017年
 小堂の壁も壊れている】

写真eimg0017
【8.尼崎の道標】

【追記】2022/1月
 有馬道関連の別サイトも参照下さい。『尼崎(ありま道)』はこちら。

【追記】2024/1月
【建立年に関する手掛かり。】
(施主「神南邊」が建てた「堺市北区百舌鳥八幡の道標」と、
 同じく「宝塚市中山寺星の広場の百度石」を追加しました。
 堺の道標には「文政十三年(1830年)」とあり、当道標もほぼこの前後と考えて良いと思う。
 関連する資料として、「1830年頃までは神南辺隆光、以降神南辺道心の銘が多い」とするweb上の資料があり、
 他にも多数の石造物を残しているらしい。「堺市堺区寺地町東4-1-14の旭蓮社本堂左奥に神南邊道心の墓があり、
 台座には天保12(1841)年9月10日と刻まれる」とするweb上の資料もあり、「堺市史には、天保12年2月20日没」
 ともしている。これらを信ずれば、神南辺本人が建てたものならば天保12(1841)年以前とできる。天保12年9月
 10日であれば、1841年10月24日日曜日となる。この年閏一月あり。
  尚、堺市史第七巻の「122.神南邊道心」はADEAC(アデアック)デジタルアーカイブシステムで見ることが出来て、上記日付を
 入定日としているが、誕生日や没年齢が無く、遡り年数を決定出来ない。
  「大坂狭山市狭山4の報恩寺に、神南辺大道心が仏道に入るまでの前歴を記した天保十一(1840)年七月紀年の
 懸額が奉納されている」とする資料があり解決できるかもしれない。
 当道標に書かれた施主「神南邊」の字体が楷書に近く、百舌鳥八幡等のものはくずし字で書かれている事も紀年
 を決定する要素となるかも知れず、更に、行状等を考えると、字の上手、下手も関係するかもしれない。
  道標では無いが中山寺の星の広場南部にある南面「百度石」も参考に載せて置く。北面に「文政九丙戌歳」
 とあり、1826年の建立。東面「泉州堺施主神南邊隆光」とほほ楷書で書かれ、西面を「宿坊成就院」とする。
 石はかなり大きいが、4年前の紀年銘の字はこれより稚拙に見えるのですが、如何でしょうか。)

【参考】

写真gimg4911 写真jimg7531 写真jimg7525
【9.百舌鳥八幡宮の 【10.百舌鳥八幡宮の 【11.同、東面下部
 道標を北西に望む  道標南面下部  「文政十三(1830)年」
 手前が施主の面になる】  「神南邊」はくずし字】  今の楷書風に書かれる】

写真jimg7776 写真jimg7827 写真jimg7800
【12.中山寺のお百度石を 【13.同、東面 【14.同、北面中部
 北西に見る  「泉州堺施主  「文政九丙戌歳」は
 南面に「百度石」】  神南邊隆光」楷書風】  上手いように見えない】

【追記】2024/5月
 「神南邊隆光」に関する石造物を近辺に限り調査した結果を「神南邊隆光の考察」としてまとめました。
 これにより、当道標が再建でなければ、「神南邊隆光」の戒名より
 文化十三(1816)年頃から、文政十三(1830)年までの建立と結論しました。
  尚、堺市史第七巻の神南邊の入定日「天保12年2月20日」は誤りで、正しくは「天保十二年九月十日」
 (1841年10月24日、日曜日)とします。多分、『堺史談會誌第五號』明治36(1903)年出版の読下し誤り
 を引用した為と思う。詳細は「堺市寺地町東4旭蓮社の神南邊墓碑」を参照下さい。
 写真を追加しておきます。

写真kimg1666 写真kimg1663 写真kimg1672
【15.道標南面上部 【16.道標南面下部 【17.道標北面上部
 「南無阿弥…」は  「佛隆光」の下は  「左 大坂」は案内
 浄土宗等か】  蓮華像とした】  下部に施主を書く】

写真kimg1656 写真kimg1660 写真jimg8262
【18.道標北面下部 【19.北面施主部分 【20.北面施主部分
 「施主堺」  「神南邊」とした  「邊」の旁の下部
 「神南…」】  「邉」ではないと思うが】  「ソ」「口」なら「邉」か】

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