70.神南邊隆光の考察

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2024/5/10 初版
  はじめに  調査方法  集計対象  紀年部  結果 雑感  燗鍋  最後に

【はじめに】
神南邊道心の手になる道標に関して、作成年代の不明なものが何基かあり、その内の製作年代の解説がある史料の
内容に不満を感じた為、調べる事にしました。
 堺市史や狭山町史あたりを元と出来そうな、逸話やこぼれ話のようなものが多く見られ、読者には喜ばれそうな
記述があります。
 結論から言いますと、市史をはじめ誤読の拡散や、不確定な事実を面白く拡大したと思われ、私なりの結論を載
せる事にしました。調査の途中で同じ思いからかどうかは分かりませんが、参考とすべき資料が二点あり、調査対
象も私のものより多く、是非参考にして頂きたいと思いここに挙げておきます。
『神南辺道心関係資料』永井英治、1990年発行、
『神南辺隆光と関係石造物』月山渉、2012年発行、
何れも堺市立中央図書館で閲覧可能です。その他の資料は表形式にしておきます。
 ・マイクロソフトのエクセル
「神南邊の参考資料」
 ・グーグルスプレッドシート「神南邊の参考資料」

写真kimg0124 写真kimg0146
   【旭蓮社西の神南邊の墳(墓)西面          【報恩寺に残る本人が書いたとされる扁額
    その実像は、時の流れに忘れ去られ          みみずを殺し、犬をたたいて悩ましたらしいが、
    背中の、戒名と命日だけが今に残る】         ほとんど読めず、署名部分が何とか読めた】

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【調査方法として】
 1.作成年代が分るものから、規則性を見つける。
   神南邊の生存年月日のうち、没年は天保十二年(辛丑)九月十日(1841年10月24日日曜日)と分りましたが、
   誕生日、出家の年月日は不明です。
 2.不明なものに規則性を適用し、製作範囲を決定する。
 3.神南邊の由来となった御室御所の謁見年月日の確認。

【作成年代が分るもの一覧】
 


 集計前の明細データは下記
【集計対象データ】参照

【新旧判断の着目点】
 1.名前の表記方法、(戒名、法名全体を表す時「戒名」と表記し、道号の下に付く「戒名」は「狭義戒名」
   と表現する事にします。
  1.本人が書いたものか。施主と明記するもの。他の名前が書かれていないもの。
  2.院号(戒名の先頭)、神南邊の「邊」の使用方法、楷書かくずし字か
  3.道号(戒名の2番目)、「道心」が付くか、「大道心」とするか。
  4.狭義戒名(戒名の3番目)、「隆光」が付くか。
  5.俗名(一般の呼び名)、「弥助」。
  6.院号に「庵」が付くか、
 2.道号に「大」が付くかどうか。「大」が階級を示すなら、「道心」より「大道心」が新しいであろう。
 3.楷書(当時の呼び方ではない)か、くずし字か。
 4.字が上手か、下手かの分類。
  何時頃から字を書き始めたかは分からないが、出家してから字を書くことが多くなったとすれば、上達す
  るものと考え、上手ければ後年と出来るのではないかとした。
 5.神南邊の「邊」の書き方で本人の筆かどうかを決める事が出来るか。
 6.同じく本人判定で「堺」の「介」の部分の書き方が直線的か、「左海」の表現は古いかどうか。
 7.記入面の余裕と文字数に相関があるか。
【建設趣旨の対象決定】
 1.当てにならない資料に多く見られる、「万人の為」に建立とするが、幾つか見て来るとある目的が見え
   てきます。それは、菅原道真に由来する「天満宮」、安倍晴明に関係するもの、等です。
   今で言う「マイブーム」が有ったのならば、時期が偏るのではないかとの考えです。
    これは、地域に於いても適用できると思うのであるが、残念ながら大阪の一部しか見ていない為、省
   略した。特に四国や奈良など、遠方に行けば再三の往来も難しいと思われるので、建設年が絞られて来
   るとおもうのである。

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【集計対象データ】
 マイクロソフトのエクセル
「神南邊の石造物_集計用」
 グーグルスプレッドシート「神南邊の石造物_集計用」
 を用意しました。
 興味ある方はご自身で集計してみて下さい。

【対象データの施主部写真】(紀年順)

写真jimg9859 写真jimg9513 写真jimg9029 写真jimg9339
【1.壺阪寺の百度石 【2.地蔵寺門前の百度石 【3.菅原神社の百度石 【4.法明寺前石橋
 施主 神南邊隆光  願主 神南邊隆光  願主 神南邊隆光  發起人堺 隆光
 1817年】  1819年】  1819年】  1825年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真kimg1739 写真kimg1593 写真jimg9242 写真jimg7976
【5.七道西町の供養塔 【6.中山寺星の百度石 【7.違神社の百度石 【8.道明寺の百度石
 發起 神南邊隆光  施主 神南邉隆光  施主泉州堺 神南邉隆光  施主泉州堺 神南邊隆光
 1826年】  1826年】  1826年】  1827年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg9504 写真jimg8170 写真kimg0446 写真kimg0692
【9.浅沢神社の鳥居 【10.伊賀の道標 【11.仁和寺裏手の標示石 【12.同左2
 執次 神南邉  堺施主 神南辺隆光  發起泉州堺神南邉庵大道心隆光  同左
 1827年】  1829年】  1830年】  1830年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真kimg0779 写真gimg4937 写真jimg9973 写真jimg8767
【13.同左3 【14.百舌鳥八幡の道標 【15.信太森の千度石 【16.大念寺の西国三十三度供養塔
 神南邉庵大道心隆光  さ可い 神南邊  取次 神南辺  発起 神南邉庵大道心隆光
 1830年】  1830年】  1831年】  1834年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg9087 写真jimg8641 写真kimg0031 写真kimg0167
【17.常安寺の敷石 【18.河内長野88所遙拝碑 【19.天性寺の百度石 【20.報恩寺の扁額
 施主 神南辺  発起 神南辺大道心  發記 神南邊  神南邊大道心
 1835年】  1837年】  1838年】  1840年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg8551 写真jimg8992 写真jimg8361 写真kimg0065
【21.狭山市池尻の道標 【22.長法寺の鳥居 【23.旭蓮社の墓碑の台座 【24.旭蓮社の墓碑の像の背
 施主堺 神南邊大道心  発起 神南邊  神南邊大道心墳  興譽仁恕隆光法子
 1840年】  1840年】  1840年】  1841年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真kimg0273 写真jimg7943 写真jimg8439 写真kimg1660
【25.原田3の晴明塚 【26.道明寺神門東の社標 【27.菅生天満宮の降誕地碑 【28.尼崎市の地蔵道標
 さかい 神南邉  泉州堺 神南邉大(道心)  発起泉州堺 神南邊大道心  施主堺 神南邊隆光
 9999年】  9999年】  9999年】  9999年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg7717 写真kimg1319 写真jimg7873 写真jimg8464
【29.羽曳野川向の道標 【30.太子町山田の道標 【31.葛井寺の道標 【32.狭山市駅前の道標
 発起 神南邊大道心  左海 神南邉…  堺 神南邉大道心  世話人 神南邊
 9999年】  9999年】  9999年】  9999年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真kimg0309 写真jimg9598 写真jimg9051 写真jimg9163
【33.富田林錦織の道標 【34.吉野竹林院の道標 【35.菅原神社の梅標石 【36.長谷寺の井戸枠
 発起 神南邊  神南辺隆光  執次 神南邉  施主 神南邊
 9999年】  9999年】  9999年】  9999年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg9273 写真jimg9219 写真jimg9292 写真jimg9250
【37.安倍晴明神社の標石 【38.船待神社の標石 【39.神山町綱敷天神社の標石 【40.あびこ観音立像台石
 泉州堺 神南邊大道心  神南邊大道心  泉州堺 神南辺大道心  願主 神南邉 弥助
 9999年】  9999年】  9999年】  9999年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg9120 写真kimg1154 写真kimg1238 写真jimg8871
【41.頓宮の手水鉢 【42.役行者錫杖水の道標 【43.太子町春日の道標 【44.大海神社の神輿台東側
 發起 神南邊大道心  堺 神南邊隆光  施主 左海 神南邉  取次 神南辺大道心
 9999年】  9999年】  9999年】  9999年】
 詳細  詳細  詳細  詳細

写真jimg8881
【45.大海神社の神輿台西側
 取次 神南邊
 9999年】
 詳細

写真kimg0204 写真kimg0167 写真kimg0168 写真kimg0169
【20.1報恩寺の扁額 【20.2額文字部の最後 【20.3「南邊」とその下 【20.4「邊」の左下、額最下部
 額にガラスが嵌められ  「神南邊」と思われる  「大道心」は有るか  中央「道」ならくずれ少く
 堂内の景色が写り込み読めない】  くずし字で書かれる】  この3枚共に加修正】  「心」は白くみえるか】

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【紀年部比較】
 「施主、願主」は本人が書き、「発起、取次」は多分他人が書いたと思う。
  西暦の後ろ+00年は文化14年を起点に経過年を示す。
写真jimg9866
【1.文化十四年六月(1817年)+00年
 高取町壺阪寺の百度石
 施主

写真jimg8945 写真jimg9026
【2.文政二年四月(1819年)+02年 【2.文政二年四月
 住吉区地蔵寺門前の百度石  堺市東菅原神社の百度石
 願主  願主

写真jimg9330
【3.文政八年十月(1825年)+08年
 東成区法明寺前石橋
 発起人

写真jimg8319 写真jimg7800 写真jimg9239
【4.文政九年(1826年)+09年 【4.文政九年 【4.文政九年
 堺市七道西町の供養塔  宝塚市中山寺の百度石  堺市方違神社の百度石
 発起  施主  施主

写真jimg7974 写真jimg8918
【5.文政十年(1827年)+10年 【5.文政十年
 藤井寺市道明寺の百度石  住吉区浅沢神社の鳥居
 施主  執次

写真jimg8178
【6.文政十二年(1829年)+12年
 羽曳野市伊賀の道標
 施主

写真kimg0419 写真gimg4928
【7.文政十三年(1830年)+13年 【7.文政十三年
 右京区仁和寺の標示石  堺市百舌鳥八幡の道標
 発起  施主

写真jimg9969
【8.天保二年四月(1831年)+14年
 和泉市信太森の千度石
 取次

写真jimg8739
【9.天保五年三月十八日(1834年)+17年
 茨木市大念寺の供養塔
 施主

写真jimg9083
【10.天保六年(1835年)+18年
 堺市常安寺の敷石
 施主

写真jimg8635
【11.天保八年三月(1837年)+20年
 河内長野市八十八所遙拝碑
 発起

写真kimg0023
【12.天保九年四月(1838年)+21年
 岸和田市天性寺の百度石
 発起

写真kimg0233 写真jimg8561 写真jimg8985 写真jimg8356
【13.天保十一年(1840年)+23年 【13.天保十一年 【13.天保十一年 【13.天保十一年
 狭山市報恩寺の扁額  狭山市池尻の道標  住之江区長法寺の鳥居  堺市寺旭蓮社神南邊墓碑の台座
 施主  施主  発起  対象者

写真kimg0065
【14.天保十二年九月十日(1841年)+24年
 堺市旭蓮社の神南邊墓碑の像
 死後他人

  
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【解析結果】
 調査対象、44件ですが、旭蓮社の像は台座部にも紀年銘があり像部と異なる為これを2基とすると45件
 となります。この内年号が記されているもの24件、不明のもの21件でした。
 最も古いものが1817年(文化十四年六月)、新しいもの1841年(天保十二年九月十日)ですが、1841年は
 命日と思われるので、本人が係わったものでは1840年(天保十一年十月)が最後と思われる。
  この中で「隆光」と書かれたものが古く、1829年(文政十二年)迄は一基「神南邉」のみの鳥居を除き
 全て、「神南邊隆光」である。即ちここで言う「道号」が付いていない。
 次に、「神南邊大道心隆光」とするものが1830年〜1834年まで続き、1837年からは「神南邊大道心」とな
 っている。
1.【道号に関して】 
 道号に「道心」とするものは一件も無く、全て「大道心」である。堺市史等にある「神南邊道心」は存在し
 ません。多分、前述の私の疑問『「大」が階級を示すなら』を「yes」として、「大」を省いて表現したも
 のと思われます。
  尚、報恩寺(浄土宗)で扁額拝見の折、ご住職に「大道心」なる僧侶の位(階級)が有りますかと尋ねた
 ところ「ない」との事、六階級のうち「大僧正」のみに「大」があると教えて頂いた。

2.【狭義戒名部に関して】
 特例は「神南邊弥助」とするもの一基、「神南邊」だけしか書かれていないものが紀年有に6基、無しに
 6基ある。院号しか書かれていないものは多分にスペースの都合かと思われる。
 === これを本人が書いたものに限ってみると ===
 1817年から1829年迄は「神南邊隆光」のみ、七基全て同一
 1830年と 1835年に 「神南邉」と狭義戒名の無い二基
 1840年に「神南邊大道心」初めて使う二件、扁額と道標で報恩寺関連
 紀年を持たないものものも含め、「神南邊道心」と表現するものは無い。
 俗名と感じる「弥助」には紀年銘が無いが「隆光」や「大道心」に比べ古いと想像する。そこで、その字は
 下手かどうかを見ると、やはり決して上手ではないが丁寧に書かれている感じがする。

3.【庵号に関して】
 「庵」が付くもの、即ち庵号としたもの。『法名戒名大字典』に「院号に「庵」号を用いる事あり。」と
 ある。
 これに該当するもの4基、内三基は御室八十八ヶ所内、残り茨木市大念寺の一基も御室御所の関連として
 この宗派では院号に「庵」を付けたものとして特別視する必要はないと思う。
 尚、戒名に「誉」が付くのは浄土宗とある。

4.【くずし字に関して】
 くずし字で書かれたものは少なく7基しかない。内、紀年を持つもの3件で扁額1件を含む。扁額は紙媒
 体と同一と考えれば必然で、石造物に限れば6基、紀年あり2基となる。紀年を持つものは、1830年と
 1840年で年代決定の要素には、しにくいと思う。
  尚、本人が書いたと出来るくずし字のものは5件で、1830年以前には使われておらず、境界点と出来る
 かも知れない。没年1841年に近い後期12年間である。

5.【字の上手、下手に関して】
 本人の上達度が感じられるかを見る為に、施主と出来る物だけを対象とすると25基あり、内、紀年のあ
 るもの11基を見ると、やはり上手になっている傾向が見て取れました。
 1817年から1826年迄、5基中、4基が下手、普通が1基
 1827年から1835年迄、4基中、1基が下手、普通が3基
 1840年は、2基中、2件が上手
 尚、紀年の無いもの14基中、5基が下手、普通が8基、上手が1基
 全体を見ると、下手10基(40%)、普通12基(48%)、上手3基(12%)になります。
  但し、年号部分だけ見ると余り上達は感じられず、恐る恐る書いたかのように感じます。

6.【邊、邉、辺、に関して】
 本人のものと思われる25基中、「邊」とするものが最も多く13基(52%)、「邉」が8基(32%)、
 「辺」が4基(16%)となり、「辺」が1829以降2基と後年の様に感じられるが、使い分けたかどうかは
 確定できない。
 又、誤字らしきものも含め「邊」「邉」が混在する為、院号にこだわりが無かったのかも知れない。解析
 以前に立てた予想「名前の字を間違うわけは無い」は無残にも砕け散った。

7.【堺の表現に関して】
 多分住所としてであろうが「堺」と書くものがある。ただ表現方法が幾つかあり、制作年と相関がないか
 検討してみた。
 着眼点として、
 1.さかい(サカイ)、2.左海、3.堺の旁部の「田」を「由」と書く、4.同じく旁下部「介」を
 「分」の様に右側をはらって書く、5.くずし字で書く、の順に進むのではないか。
 他に「土」扁部分を縦に長く直線的に書く等あるが、これは上達によるものとして除外する。
  結果的には、「堺」と不通に書くものが古く、以降段々とくずす傾向がある様にみえ、カナを含めて
 「さかい」は後年に使ったと出来そうです。但し対象件数が7件しかなく精度は疑問です。

8.【御室御所門跡の謁見と「神南邊」】
  ・この事実を確認する有効な資料は手に入らなかった。『河内長野市郷土研究会誌題59号』平成
   29年4月に「神南辺隆光と御室御所/そして西国三十三度供養塔/石造物に刻まれた文言から
   見えるもの」とする記事があったが、『神南辺隆光と関係石造物』と『堺市史』の例を引くだけ
   で、謁見時期の裏付けは書かれていない。
  ・文政十三年頃とする『神南辺隆光と関係石造物』にも根拠は書かれていないが、同書でも指摘し
   ているごとくに、謁見以前から「神南邊」を使用していた。今回の私の調査の中にあっても最古
   の「壺阪寺の百度石」にさえ、文化十四年六月(1817年7月)と銘が有り、「神南邊」を使用してい
   る。依って、「神南邊」を下賜されたとする説は誤りとなり、謁見の年月を求める必要はないと
   思う。
   尚、上書が文政十三年頃とするのは、多分京都地震の発生がこの年であり、御室八十八ヶ所再建
   の功による謁見なれば、それ以降と考えられたものと思う。国立公文書館の
『天保雑記』
   「文政十三寅年七月京都の大地震は二日の日ナリ」と確認出来る。
  ・『羽曳野市史』七巻の「石碑」に「五軒家の道標」が載り、この中の説明に「…これが聞こえて、
   御室御所から拝謁を許されて御盃を賜り、燗鍋弥兵衛を改めて「神南辺」の姓と「道心」の号を
   与えられて…」と調査結果と異なる内容になっており、後に書かれる「その後、天保七(1736)年
   には嵯峨御所より錫杖の下賜があり…」にも出典が書かれていない。
   又、入定日を天保十二年(1841)年二月二十日としている事等から、堺市史などからの引用と思う。
  ・結論として、院号部分に当る「神南邊」は住居、又は出生地等から付けられたものであろう。

9.【余白の有無について】
  ・漢字「邊、辺」の使い分けは、文字の大きさに依るかもしれないと気付いたが時遅く、仕方なく
   記入面の余白を見ることにした。余白があれば略字となる「辺」を使わず広く書いたとする。
   結果、本人が書いたと出来る25基中、「邊」が13基、「邉」8基、「辺」4基にあって、「辺」で
   埋没の1基を除外すると、余白有りが3基で全て。全基を通して余白の無さそうな1基さえ「邊」
   を用いているいることから、関係は無いといえるでしょう。

10.【主たる対象について】
  ・「対象」とは、神南邉が目的とした、或いはそこに祀られているもの言う。
  ・道標に関しては対象を決め難いが、独断で決定した。対象は下記にあげる。発起人、世話人と
   あるものも含め45基について見た。
   菅原道真:8、西国三十三:7、住吉大社:4、地蔵菩薩:3、安倍晴明:2、御室御所:4、
   大峰山:1、役行者:1、あびこ観音:1、四国八十八:1、親鸞:1、大黒寺:1、大鳥神社:1、
   滝谷不動尊:1、方違神社:1、心譽砕入法子:1、本人と無関係:2、本人の由縁:5、
   となった。
    結果、「菅原道真」とした天満宮を対象とするものが最多で、続いて「西国三十三ヶ所」に
   関連するものが多い。御室御所が4基とあるが内3基が一連であり実質2基となり、住吉大社も
   神輿台2基を1とすると3基となる。依って三番目は、「住吉大社」と「地蔵菩薩」になります。
   「大峰山」と「役行者」は合わせて良いかもしれず2基とすれば「安倍晴明」と共にそれに続く。
   「本人の由縁(ゆかり)」としたものが5基あり、これは多分自分が住んでいた所や、お世話に
   なっていた所等と想像したもので、生活の為のものとし、集計順位から省いた。
   「本人と無関係」としたものは自身の墓に関するもので、神南邊の考えは及ばずこれも省く。

11.【遠方地と紀年に関して】
  ・最も遠い徳島県が天保六(1835)年七月、二番目が和歌山那智山天保七(1836)年四月
   和歌山紀三井寺の天保十一(1840)年三月、和歌山加太の文政十三(1830)年四月、
   奈良室生の文政四(1821)年、奈良壺阪寺の文化十四(1817)年、等となりますが、
   天保六年に堺常安寺の敷石、天保十一年七月に狭山市報恩寺の扁額等ある事から長期の旅を
   する事は無かったのかも知れない。
   ただ文化十四年、文政四年、十三年は他に石造物がなく、長期の旅行にあったかも知れない。
    これらの遠方への道の途中に順番に複数を建てたような状況は見られない。
  ・徳島県の天保六(1835)年が四国八十八ヶ所の関連として、「河内長野の八十八ヶ所遙拝碑」
   がその2年後の天保八(1837)年三月の建立になるのは、前の四国(徳島)行に起因するもの
   かも知れない。
  ・建設年を無視し街道別にみると、明治の呼称になりますが、1.紀州街道、2.西・中・東
   高野街道、3.竹内街道から大峯山と室生寺、4.有馬街道から中山寺、の各沿線にある。
   無作為に立てたとは思えないのですが、如何でしょう。

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【解析後、雑感】
 1.先にも挙げましたが、先人の事業は美しく面白い方がいいように思うのは私も同じなのですが。
   例えば堺市史を抜き書きすると「往来優れた技量を持ちながら素行修まらず」「その子幼くして
   仏門に入り…、すごく諫められ…、ある日頓悟(一挙に悟りを開く)して仏門に入り」「或いは
   橋梁を架して交通に便した」「事蹟御室御所に聞こえ…、高貴の前にもはばからず、あぐらのま
   まに御盃を賜り」「燗鍋を神南邊とし、道心号を与えられ…」とあり、
   又、狭山町史では、「すぐれた素質・技術を持っていたが若い時から道楽者で…、家財道具も売
   り払い遊興費に…四十過ぎまで素行がおさまらない…」「息子の僧の旭隆に『…このうえは仏へ
   の申し訳にお母さんといっしょに殺して下さい』と涙ながらに諫言した」と芝居を見ている様な
   記述があります。
    多分、断片的な資料を寄せ集めて面白おかしく作ったと思われ、出典や参考資料等の記述はあ
   りません。
 2.「橋梁を架して交通に便した」
   私の見た内で近世なら橋と理解できるものが一点、今は
敷石と見える溝の蓋が一点の二基である。
   何れも寺への進入口に設置されたと思われ、「交通の便」とは言えないと思う。
   上記の橋らしいのは「東成区深江南法明寺前石橋」で長さが3m程あるが、一般通行人が利用す
   るものでは無く、参詣者が寺に入るためのものである。
 3.「優れた技量」等
   関係する、鍋等は一切現存しないようですが、「鍋」に関して唯一の手掛かりを挙げておきます。
   吉野竹林院東の道標に、多分共同の施主であろうと思われる人名に「堺 鍋屋嘉平衛」とある。
   この「鍋屋」が取引先であったか、親方であったか等である可能性がある。
 4.「素行が悪い」
   多分、現存する、大阪狭山市の報恩寺の扁額にあるらしい(読下し不可だった)記述、「然るに
   予幼少に淵魚釣を好、数多ミミズを殺し又犬を責悩し杖打ちて邪淫を犯し多罪のかるべき所をし
   らず」を誇大解釈したものではないかと思う。
    私にとっては釣りをするためにミミズを取り、多分、野犬を追い払うのに棒でたたいたとして、
   生類憐みの令に逆らったものか、はたまた仏の教えに反したものかは分からないが、「素行が修
   まらない」とは、思えないのですが。他にこの手の資料がないとする中で、この記述からだけで
   出家以前の行状を書かれるとは、本人も驚くことでしょう。
 5.「道心」「大道心」について。
  先ず注意点として「神南邊道心」の表現はありません。参照した資料にもこの点を指摘したものは
  無かったように思う。
  理由は「道号」という言葉=「道心号」としている為ではないか。私は偶然「大道心」に「道」が
  含まれているだけで、それが道号部分にあると解釈しました。「大」は階級を表すものではないと
  結論するものです。即ち「神南邊道心」は存在しないのです。
  第62代横綱「大乃国康」を「横綱乃国」と呼ぶに等しい。
   現在では戒名を使う状況は無いものの、位牌、墓石等を作る場合に、僧より名付けてもらうと、
  思うが、当時の神南邊はどうであったのでしょう。仏僧になった時点で戒名か法名を授かったのは
  間違いないとすると、彼自身が建てたものから「神南邊隆光」が浮かび上がります。
  その後「神南邊大道心」と変わるように見えて、以降は「隆光」が消えます。「神南邊大道心隆光」
  と使うのは、他人が書いたものとおもわれます。
  特例が一つ、「神南邊弥助」。想像ですが「弥助」は俗名であったとし出家前のものとする。
 6.年単位の建立頻度について。
  神南邊が自身で建てたと思われる石造物に関して、紀年銘のあるものはそのままとし、無いものを
  戒名の「隆光」「大道心」の使い分けにより、適当に建立年を割り振って見ると、一年に一基の割
  合で建てていると想像できる。中に年2基となる年も6回有るが、建てていない年も4年ある。
   これは、費用の点でそうなったのか、目標などとしていたかは分かりませんが、納得がいくよう
  に思えます。
  適当に振った年を、建立主旨(例えば菅原道真関係)や、目的地別(例えば壺阪寺)に紐付ければ
  裏付けのある建立年が決定出来てくるかもしれない。
   他に、文政5年から文政8年にかけての4年の空白期間が気になります。遠くに修行をしに行っ
  たものか、病気になっていたのか、何かの手掛かりを探す必要もありそうです。
   尚、地域別の分布を見る為、未調査分も含めマイマップを作成しました。
 7.紀年銘を持つものの内、最も古い(本人が若い時)「あびこ観音の立像」が一番高価であるよう
  に思う。これが事実であるなら、若い時に資金が潤沢であったと考えられるが、それ以降の石造物
  も当時の一般的な道標等と比べると立派なものであり、その資金源がどのようなものであったかは
  興味が尽きない。喜捨等だけで集める事が可能であったとは、今の時世では考えにくいのですが。
   僧侶の副職(アルバイト)は可能だったのでしょうか。

  はじめに  調査方法  集計対象  紀年部  結果 雑感  燗鍋  最後に

【どうしても燗鍋に繋ぎたい人へ】
写真jimg9820 写真jimg9592 写真jimg9793
【1.唯一の「鍋」つながり 【2.北東面 【3.鍋部分拡大
 吉野山竹林院の道標  厚さ幅の約半分  見難いが
 手前の面に「堺 鍋屋嘉平衛」と  は山中の為か  「鍋屋」とある
 あり、この人との関係は不明】  彼にしては小】  裏面に「神南辺隆光」】

 勝手な想像ですが、堺の取引先の旦那、嘉平衛さんに
 『今は出家し「隆光」と名乗っていますが、鍋を仕入れて頂いていた頃は、大変お世話になりました』
 『ところで、大峯山への道しるべを考えているのですが、一緒に建てませんか』、
 『竹内街道沿いの所々にも建てるのですが、花見にご一緒した吉野の山にも一つ置きたいのです』、
 『そう、上の千本の竹林院の少し先、奥駈道から如意輪寺へ分れる辻になります』、
 『場所的に少し小さい石にするつもりです』、
 『吉野の山中につき、出来上がりは何時になるか分かりませんので「吉日」とだけ入れるつもりです』
 等とやり取りしたのでは無いか。

  
はじめに  調査方法  集計対象  紀年部  結果 雑感  燗鍋  最後に

【最後に】
 やはり「神南邊」は私の前には明確な姿を現わさず、今後も「むかし話」の中で語られていくようで
 すが、素行が悪かった等の余分な飾りも含め、存在さえ忘れさられてしまう危機にあるようです。

 この調査のきっかけとなった
「尼崎市西川2の地蔵道標」の建立年は文政十三(1830)年以前と
 結論出来そうで、文化十三(1816)年頃まで遡れそうとします。

  はじめに  調査方法  集計対象  紀年部  結果 雑感  燗鍋  最後に

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