25.宝塚市中山寺2華蔵院道標

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宝塚市中山寺2−11−1 中山寺華蔵院境内に東を正面に建つ
尖頭形角柱 89x24.5x18.5p(頂高5p)(案内板では総高118p)
N34.820745 E135.36847


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東面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│       永正十四年丁丑        │
│(梵字)六丁 山城国修□院為六親 石大工政春│
│       八月十八日          │
└――――――――――――――――――――――┘
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)では
┌─―――――――――――――――――――――┐
│       永正十四丁丑       政 │
│(梵字)六丁 山城国□□□□   石大工  │
│       八月十八日        春 │
└――――――――――――――――――――――┘
(梵字)は阿弥陀如来をしめすとある。)

南面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│天和三年十一月十八日            │
└――――――――――――――――――――――┘

西面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│    右ハきよ水             │
│(梵字)      道           │
│    左ハひやうご            │
└――――――――――――――――――――――┘
(同上(梵字)は地蔵を示すとある)

北面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│建主椙本坊祐慶               │
└――――――――――――――――――――――┘


(永正十四年八月十八日は、グレゴリオ暦1517年9月13日(ユリウス暦3日)木曜日となる。)
(天和三年十一月十八日は、グレゴリオ暦1684年1月1日火曜日となる。)
(同時期に建てられたものとして例に出される、
 1.伊丹市宮ノ前2丁目金剛院の境内東奥にある丁石(十二丁)とは建立年月日が一致しているが様式は異なる。
 2.川西市加茂2の丁石(十四丁)とも様式が異なるようだ。(日付は一致)
 詳しくは、【永正十四年作成の三道標比較】を参照して下さい。)
(『たからづかの道標』(昭和61年刊)59では、
 「永正十四年の建立で中山寺参道に立てられた丁石であるが背面の追銘によって天和三年以後道標として
 再使用されたことがわかる。その後里道の橋に転用されていたのを現在位置に移し保存されている。」と
 あり、元の位置も二ヶ所探さなければならない。
  まず丁石から。
 道標を必要とする場所に建て、丁数を書く場合は、5.5丁(599m)≦ <6.5丁(708m)を考えなければなら
 ないが、本来の丁石なら6.0丁(654m)を探せばよい。
 丁石は本堂までとされるので、現在の本堂(慶長8年(1603年再建))から測ると(丁石建設時(1517年)の
 本堂の位置は未確認)
 1.西方の巡礼道の、中山寺3丁目10−5
N34.818767 E135.363914
  近くに、巡礼道から分岐し小浜へ向かう堤防道あり。
 2.南方の西宮道の、売布東の町21−1
N34.816513 E135.368270
  近くに、分岐なし。
 3.南東の中山道の、中筋1丁目3
N34.818282 E135.372568
  伊丹からの中山道上で、蕨野への道(西宮道)が分岐する地点。
 4.東方の巡礼道の、中筋山手3丁目1−16
N34.820967 E135.373594
  近くに、分岐なしが挙げられる。
  後に道標に利用されているなら、四辻や、分岐点が近くにあったと考えられる。
 その観点から、清水と兵庫の分岐点が近所に有るのは、上記1.と3.であり、他は除外する。
  3.から見てみよう、中山道の三叉路の西部に位置したなら、「左兵庫」は西宮経由兵庫で申し分なし。
 但し「右清水道」は方向としては問題ないが、清水よりも先に、中山寺に行き着く。
 よって、中山寺を飛び越して、「清水道」の表現に納得がいかない。
  1.はどうか、これも巡礼道の三叉路の西部に位置したなら、「右清水道」は巡礼道をそのまま進む事を示し、
 「左兵庫」は、この道自体は主要道ではないにしても、小浜に出る道はこの近辺に此処しか無く、小濱からは
 西宮道を兵庫へ進む事が出来ることは自明である。
 よって
 1.中山寺3丁目10−5
N34.818767 E135.363914
 辺りとしたい。
  二番目の、道標として使用されていた位置が何処かについては、丁石問題で考えたことがそのまま位置を同定
 する事となります。
 即ち巡礼道から、小濱への分岐点(上記丁石として設置したとする位置の80m西、小川(大堀川?)を越えた
 西堤上の道との分岐点)
N34.818212 E135.363402、
 辺り(菰池の東でもある)に、現在の西面を、北、又は東、或いは北東に面して建っていたとする。
  このように考えれば、「その後里道の橋に転用」とあるのは、大堀川に架かる橋であったと考える事も出来る。
(2017/9追記。元位置について。『市史研究紀要たからづか』第19号、宝塚市教育委員会、平成14年刊に、
 1.永正十四年笠塔婆型町石として造立、
 2.天和三年道標として追刻、
 3.順礼道、山門西200m溝橋への転用、
 4.現在地(境内)、としており、
 それらの位置としては、
 1.不明、2.表示内容の見当から中山寺2丁目2−13の三叉路の南西角として
N34.819643 E135.367435
 と地図上に示しており、此処ならば「左兵庫」は蕨野から小濱へ続く道を指し、私説の候補地1の堤上道よりも
 広い道(明治の聯路)であったと思われる。又、此処から転用した溝への距離も100m程度とかなり近い。
  この地点は、別項「22.中山寺2中山寺梅林内道標」の元位置とした地点でもある。)

写真dimg1630 写真dimg1631 写真dimg1632
【1.中山寺山門北へ50m 【2.華蔵院入口を東に望む 【3.西を望む、中央に道標(町石)】
 東側華蔵院入口】  道標は左側赤い旗
 
 の立つ堂の裏側】

写真dimg1650 写真dimg0759 写真dimg0758
【4.道標南に立つ案内板】 【5.宝塚東部の道標(明治44年)】 【6.伊丹北部の道標(明治44年)
 
 
 この図では橙色の星印で
 
 
 山門からの丁数を示している
 
 
 現本堂からの丁数とするなら
 
 
 200m程度減じる必要がある。】

写真dimg2112
【7.宝塚南部の街道】

写真dimg1478
【8.市史研究紀要たからづか
 の天和三年の想定元位置
 (垣根右端)を南に望む】
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