30.茨木市東福井2の道標2

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茨木市東福井2丁目16−2 ほぼ南北の亀岡街道から北東(清坂街道の東で併行道)に分岐するY字路の北東部に建つ
(佐保川に架かる「にいやはし」の北100m)
自然石 70x48x27p
N34.846654 E135.553182


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自然石
南東面
┌────―――――───――――――――――┐
│右 石川                  │
│       道              │
│左 亀岡妙見                │
└――─――――――――――───――――――┘

北東面
┌────―――――───――――――――――┐
│(なし)                  │
└――─――――――――――───――――――┘

南西面
┌────―――――───――――――――――┐
│(なし)                  │
└――─――――――――――───――――――┘

北西面
┌────―――――───――――――――――┐
│(なし)                  │
└――─――――――――――───――――――┘


(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では20)
(同書に「以前の亀岡街道は、この辻より東に進み、真龍寺の西方を北へ行き山道になるのであった。
 その道筋ならばこの道標の案内に合わない。したがって亀岡街道が現在のように村落の中を通るように
 なってから建てられたことがわかる。」としているが、明治44年発行の地図を見ると、この辻の北500m
 の東福井3丁目の交差点から、北東へ分岐する道を清坂街道、北西に佐保川に沿う道を亀岡街道として
 おり、この道標の有る辻からも、清坂街道と併行するやや細い道が描かれており、石河の手前で清坂街道
 と合流しているように描かれている。よって上記は亀岡街道でなく、清坂街道とすべきで、亀岡街道は、
 北西へ直進する道であろう。依って、案内の不整合はなく、それを建立時期の論点には出来ないと思う。)
(又、同書に「石川」は「石河」と同じとし、石河村は、明治22(1889)年の町村制の施行で出来た事により
 同年以降の建立ともしているが、「石川」なる地名の検討はなされていないようだ。
  因みに、「国立公文書館デジタルアーカイブ」「天保国絵図摂津国」には載っておらず、その方面の村
 を示すなら、国見や大岩を用いたであろうか。
 この辻より南200mにある「28.茨木市東福井2の道標4」では、「く尓ミ(国見)」と表現するもの
 がある。
  他に「石川」、「石河」を表示している道標として、
 1.「茨木市十日市町1の道標」  明治42年3月
 2.「茨木市東福井3の道標」   明治42年4月
 3.「高槻市氷室町1の南側道標」 明治43年6月
 等があり、いずれも明治の建立であることを見れば、上書の明治22年以降は正しいかもしれない。)

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【1.道標を北に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を西に望む
 奥(北)亀岡へ  奥(北東)石川へ  左右が亀岡街道
 右、石川へ】  清坂街道と併行道】  南28、北30道標へ】

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【4.道標南東面拡大 【5.同左更に拡大 【6.道標上部より
 左側が狭苦しいが  「右 石川」が  石全体は殆ど
 右下が空き不均衡】  建立年を決めるか】  加工されていな】

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【7.茨木南部の道標】
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