68.茨木市東奈良3の道標4(2023年11月再建)

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茨木市東奈良3−12−18 茨木市立文化財資料館、土蔵の西側植込の三基の内南端に西を正面に建つ
尖頭型角柱 81x16x16p(基部8p含む)(全高133p)
N34.802843 E135.567922


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西面
┌――――――――――――┐
│      是より   │
│右 妙見山  六十丁  │
└――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――┐
│安政二年 芥川施主   │
│ 卯六月 奈べや    │
│       源兵衛  │
└――――――――――――┘
(施主の下に一字あるかも知れない)
(「奈」はかな「な」)

東面
┌――――――――――――┐
│(なし)        │
└――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――┐
│(なし)        │
└――――――――――――┘


(2023年11月24日訂正)
 資料館に倒置されていたものが、西植込み前に再建されていました。依って場所、方向、寸法等を変更します。
 旧上面(現南西面)の読み下し「半丁」は誤りで「六十丁」が正解で、読み落としもあり、訂正します。
 大変申し訳ありません。これにより、当石を妙見山丁石としていた記述から除き、道標として扱います。関連の
 資料も合わせて変更します。
(安政二(乙卯)年六月1日なら、西暦1855年7月14日土曜日となる。)
(『わがまち茨木』(道標編)三版、教育委員会、平成19年刊では89)
(同書には、元所在地不明としているが、「是より、六十丁」と小さくあるので、妙見山の本堂から6.5q程度の
 所となるが、丁石では無さそうで、これよりは遠い所と想定できる。市立の資料館に置かれる点で同市内と考え
 る。
 これ等の条件を満足する、旧街道上が元位置の候補と成るでしょう。幾つか挙げてみましょう。
 北から、@現府道109号(余野車作線)、A現府道110号(余野茨木線)、B今は道なき多留見峠北線、C同じく
 多留見峠西線、あたりが考えられる。
 @は銭原の市境峠から、余野を経由せず野間口に出て6.5qとほぼピタリと合う。
N34.916615 E135.521818
 Aは上音羽の市境峠から6.4qとほぼピタリと合う。
N34.907592 E135.516635
 Bは市境多留見峠から6.7qと少し遠いか。
 Cは7.0qと数丁遠くなる。『わがまち茨木』に載る多留見峠の道標(遺失)が「六十七丁」と有ったらしく、
 これより近いとなると豊能町となる。
 BCは共に
N34.902679 E135.513493
 辺りである。
  施主に「芥川」と有るので高槻市の芥川から来る道が何処を通るかが次のポイントとなる。経路は二つ有り、
 上書の「妙見街道支線」であろう、高槻市郡家、現南平台、奈佐原、霊仙寺、茨木市車作、忍頂寺、(下音羽)、
 上音羽で「亀岡街道」に合流し、豊能町余野への道が一つ目、これを「妙見街道支線系」とする。二番目が
 芥川から「西国街道」を西に進み、氷室、北に折れ土室、塚原、茨木市桑原、現山手台で「亀岡街道」に出て、
 大岩、一町田、泉原、上音羽の南から「旧亀岡街道」に入り、多留見峠から、豊能町余野への道「亀岡街道系」
 である。
  こうすると、銭原を通る@は除くことが出来る。ではAか、BCかであるが、距離的にはほぼ同じように見え
 道中の歩き易さ(巾、勾配)は分からず条件から省くが、上書にあるAは「支線」を使っている点でBCとしたい。
  結論として、元位置は多留見峠に東面していたとします。この時、「上音羽多留見峠の道標(遺失)」が此処
 にあったとされそれに、「妙見山…六十七丁」とあったらしく七丁の誤差をどうするか。この石の建立は明治十
 六年五月とあり、『今昔マップ on the web』明治の地図を見ると西に下る聯路があり、北西に下る間路より太い
 道に描かれておりこちらが明治期の主要道と出来る。北西への間路がそれ以前の旧道であったと思う。
  両者は同じ所(福田バス停)に出てこの間の距離が、聯路2.2qと間路1.5qと想定出来、差が700m(6.4丁)
 程と計算でき、誤差は1丁未満となり、峠より間路を案内するものとすれば「誤差七丁」問題は無くなる。
 これらに依り、当道標の元位置は多留見峠の三ツ辻に東面して建ち、経路Bを案内していたものとする。)

(【参考】経路別距離比較、BC系は一里塚から2系統考えられる。
 A、旧亀岡道系、芥川一里塚から、氷室、桑原、大岩、上音羽南部、多留見峠13q、
 BC、支線枝切街道系の芥川一里塚から、西川原経由・下音羽短絡、上音羽市境峠14km、
 BC、支線旧清坂街道系の芥川一里塚から、奈佐原経由・下音羽短絡、上音羽市境峠14km
 何方もほぼ変わらない。)

(上部(頭頂部)に「+」と彫られているのは珍しく、方向等を示すものとするなら、他に
 1.「茨木市三咲町2の道標」   「亀」と「禽」、方角を示す四獣か
 2.「池田市石橋3札場の道標」  「十」
 3.「尼崎市上坂部2丁目の道標」 「千」か「十」
 等がある。但し、明治に入って、道標碑面に、「東西南北」の文字等を記すものは、結構見かけるので省く。)
(妙見山は、摂津名所図会に「能勢妙見祠」として、「近年應験新なりとて京師大坂及び遠近の貴賤常に詣して…」と
 記述は有るものの挿絵が載る程ではなく、出版当時、寛政10年(1798年)頃から流行り始めたとして、その60
 年後の事であれば、参詣者も増え、為に道標、丁石等も多く建てられたと思われる。その中の一つであったものか。
 能勢妙見祠は、国立国会図書館デジタルコレクション「摂津名所図会[12]」のコマ46を参照。)

写真jimg6576 写真jimg6759 写真cimg7055
【1.道標を北東に望む 【2.道標西面下部拡大 【3.道標上部拡大
 右(南)端が当道標  右側「是より」  頭頂部に「+」の
 右上の庇は土蔵の屋根】  左側「六十丁」】  印か文字が見える】
 
写真jimg6576 写真jimg6767 写真jimg6771
【4.道標南面上部 【5.道標南面下部 【6.道標南面最下部
 「安政二年/卯六月」  「芥川 施主」  中央「奈べや」
 同年は乙卯の年】  「奈べや/源兵衛」】  左側「源兵衛」】

写真cimg7061 写真iimg6555 写真iimg6539
【7.倒置されていた頃の 【9.多留見峠手前の進入口を西に 【10.元位置とした多留見峠の
 道標を東に見る  望む、白看板左奥へ30mに峠  三ツ辻を西に望む、
 現在は土蔵の左に建つ】  の三ツ辻、右は旧小径の道】  左が聯路、右が案内の間路】

写真cimg7053
【8.埋められる前の全体像
 基部が大きいのは
 設置位置の状況反映か】

写真eimg4663
【11.茨木北部の道標】
写真eimg4675
【12.茨木南部の道標】

 念のため、誤っていた内容等を載せて置きます。
【誤読部分】
 上面
  ┌――――――――――――┐
  │右 妙見山 半丁    │
  └――――――――――――┘

【改訂前の記述、丁数誤読により形状を除き、意味をなさない。】
  北側土蔵の南に寝かされている
  尖頭型角柱 73x16x16p(基部60x上面35x18p含まず)
 倒置時の経緯度
  N34.802788 E135.568009
(同書には、元所在地不明としているが、上面に、なぜか「半」が異常に小さいが、「半丁」とあるので、妙見山の本
 堂から55m程度の所となれば、場所は同定でき、明治の地図で見ると、今の能勢妙見山真如寺の北東の妙見山簡易
 郵便局の北側にある三ツ辻
N34.929407 E135.467532
 辺りしか該当する場所はない。
  基部の形からすれば、上(正)面が道と並行し、背面は建物等が有ったように想像でき、現在の地形を見ると石垣
 が背面となる三叉路の、南西への参道の東側に、現、上面が北西に面して建っていたとしたい。)
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