73.箕面市粟生間谷表参道の七丁丁石

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箕面市粟生間谷 南北に通る表参道から、西ウツギ谷のしらみ地蔵に分岐する地点の南20m、参道東側に、西を正面に建つ
五輪卒塔婆型 124x西面21x21p(水輪19x21x21p)(火輪17x21x21cm)(風輪、欠損)(空輪、欠損)
N34.85949 E135.493781


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西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)七町   僧定□        │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はキリーク『箕面のみちしるべ』より、種子は阿弥陀如来)

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘




(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では19)
(同書に「十町石から400mほど上がったところにある。…旧寺域の南限、ボウ(「片」に「旁」)示
 谷に建てると文書にあるところを見るとこの七町石が一番端であったと思われる。」としているが、
 一般的には寺域と丁石は直接関係は見いだせず、参道の開始地点からが多く、もしこれから始まって
 いたのであれば、此処までは一般の道で、ここからが勝尾寺への参詣道としたものではなかろうか、
 奇しくも、この地点は明治の地図で見ると、東川沿いの府道4号方面から来る道と四辻を成していた
 様だ。
 尚、宝治元(丁未)年十一月1日に建てられたとすると、鎌倉時代の、西暦1247年12月6日金曜日、
 当時のユリウス暦では、1247年11月29日となる。)
(西面、「僧定」の下は、くずし字の、「會、命、全」等か。『箕面市史』第一巻、昭和39年刊には
 「僧定全」とある。)
(丁石に関しては
 43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
 44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
 45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
 46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
 も参照下さい。)

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【1.丁石を北に望む 【2.丁石を南に望む 【3.丁石を北に望む
 奥(北)表参道を  奥(南)新家へ  右(東)は谷筋からの道
 勝尾寺へ】  右手前に四辻】  看板左、しらみ地蔵へ】

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【4.丁石西面上部 【5.西面地輪下部拡大 【6.丁石を上部から望む
 水輪に梵字がなく  「…僧定會」  一石五輪塔の上部の
 地輪に刻む】  であろうか】  二輪が欠けている】

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【7.箕面市の道標】 【8.勝尾寺丁石分布図】


【勝尾寺旧参道の案内板】


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 勝尾寺旧参道

 勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
 二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
 山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。

    箕面市教育委員会

(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)


(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石の
 残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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