74.箕面市粟生間谷表参道の六丁丁石

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箕面市粟生間谷 南北に通る表参道、ここでは南東から北西の登り道の南側(土手上)に、北を正面に建つ
角柱(元は五輪卒塔婆型か) 91x21x21p(上面4.5x5.5x5pの窪み)
N34.860178 E135.493496


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北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(梵字)六町   僧□賢        │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はタラーク『箕面のみちしるべ』より、種子は宝生如来)

東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし)                │
└――――――――――――――――――――┘




(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では20)
(同書に、「上部の…四輪が欠け、角柱の地輪のみが残っている。残存状態を見ると五輪は一石で作ったも
 のではなく…」としており、上部にホゾ穴が残り、積み上げて作成されていたことを示したものであろう。
 一町から七町の内、一石でないものはこれのみであり、なぜ一体だけ造りが異なっているのであろうか、
 制作年代の違いなどを検討する必要が有るかもしれない。先ずは、町数の筆跡の同定辺りからと思うが、
 今後の調査とする。)
 尚、宝治元(丁未)年十一月1日に建てられたとすると、鎌倉時代の、西暦1247年12月6日金曜日、当時
 のユリウス暦では、1247年11月29日となる。)
(北面、『箕面市史』第一巻、昭和39年刊には「僧盛賢」とあるが、「僧」の下の、くずし字は、左が
 「ニスイ」に見え「減」が近いか。)
(丁石に関しては
 43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
 44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
 45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
 46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
 も参照下さい。)

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【1.丁石を北西に望む 【2.丁石を南東に望む 【3.丁石を北西に望む
 奥(北西)表参道を  奥(南)新家へ  道は雨の度に削られ
 勝尾寺へ】  右手前、勝尾寺へ】  左側土手上に残る】

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【4.丁石上面を見下ろす 【5.北面地輪下部拡大 【6.丁石越しに南下を望む
 左が北面になる  「…僧減賢」  左七町石から、しらみ地蔵
 一石五輪塔ではない】  であろうか】  への道が見え隠れする】

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【7.箕面市の道標】 【8.勝尾寺丁石分布図】


【勝尾寺旧参道の案内板】


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 勝尾寺旧参道

 勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
 二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
 山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。

    箕面市教育委員会

(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)


(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石
 の残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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