箕面市粟生間谷 南北に通る表参道、ここでは南西から北東の登り道の北側に、南を正面に建つ
(「勝尾寺旧境内ボウ示八天石蔵、午方軍荼利明王石蔵」の西40m辺り)
角柱(元は五輪卒塔婆型か) 103x21x東面22p(頭頂部、高さ2p、直径16pの水輪の残存含む)
N34.8606 E135.49421




南面
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│(梵字)五町 阿闍梨□圓 │
└――――――――――――――――――――┘
(梵字はウーン『箕面市史』より、種子は阿シュク如来)
西面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
東面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
北面
┌――――――――――――――――――――┐
│(なし) │
└――――――――――――――――――――┘
(『箕面のみちしるべ』箕面市教育委員会、平成三年刊、では21)
(同書に、「この町石も空、風、火、水の四輪が欠け、地輪の角柱のみである。」としている。現在の角柱
上部の残闕部は、直径16p高さ2pの円盤状で、水輪が載っていたとしても不都合はなく、一石五輪塔
であったとしても良いでしょう。
ただ、気になる点として、梵字の中心線と、その下の「五町」の中心線がずれている様に見える事を挙
げておく。「町」の刻みの為にそう見えるのか、或いは下の「阿闍梨」が他の丁石と同じく、真っ直ぐに
書かれていない点が、その感を深めているのかも知れない。)
(尚、宝治元(丁未)年十一月1日とすると、鎌倉時代、後深草天皇、執権北条時頼、西暦1247年12月6日
金曜日、当時のユリウス暦では、1247年11月29日となる。)
(南面、「阿闍梨」の下は、くずし字の「祐」ではないかと思う、その下は「圓」とした、どうであろうか。
尚、『箕面市史』第一巻、昭和39年刊には「阿闍梨祐圓」とある。)
(丁石に関しては
43.「箕面市勝尾寺の東巡礼道丁石一覧」
44.「箕面市勝尾寺の表参道丁石一覧」
45.「箕面市勝尾寺のウツギ谷参道丁石一覧」
46.「箕面市西江寺の高山道参道丁石一覧」
も参照下さい。)
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【1.丁石を北東に望む |
【2.丁石を南西に望む |
【3.丁石を北に望む |
奥(北)表参道を |
背後(北)勝尾寺へ |
梵字と「五町」の |
勝尾寺山門迄四丁】 |
奥に下り、新家へ】 |
中心線が一致しない】 |
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【4.丁石上面を見下ろす |
【5.北面地輪下部拡大 |
【6.北面地輪下部拡大 |
左が南面になる |
「…阿闍梨□圓」 |
左を更にアップ |
水輪跡か丸い凸部】 |
であろう】 |
「祐圓」に見える】 |
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【7.箕面市の道標】 |
【8.勝尾寺丁石分布図】 |
【勝尾寺旧参道の案内板】

勝尾寺旧参道
勝尾寺旧参道は西国街道の新家の大鳥居から、三十
六町(約4q)の道程を経て山門に至ります。現在こ
の間には寺までの距離を示す町石が二十基確認されます
が、本来は一町ごとに建てられていたと推測されます。
町石には必ず梵字が刻まれていますが、これは金剛界の
種子曼荼羅の各尊を表わしたものです。
二十町の町石のうち、下乗石から七町石までの八基の
町石は、勝尾寺に伝えられる古文書によると、宝治
元年(一二四七年)の建立で、これは、文永二年(一
二六五年)高野山の町石よりも古く、我国で最古の町
石として、昭和四一年、国の史跡に指定されています。
山門前から新家の大鳥居に向かって進むと、途中には
国の史跡に指定された勝尾寺八大膀示石蔵(国指定史跡)
のうちの牛未方石蔵、清和天皇と行巡上人の対面石、江
戸時代に建てられた十二基の町石等、さまざまな文化財
が点在しています。
箕面市教育委員会
(町石の略図)
(東面の拓本)
(参道の地図)
(説明板では、「旧参道」としているが、当資料内では、「表参道」と表現している。理由として、丁石
の残る旧参道が、他にもあり区別する為である。)
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