24.高槻市下田部町1の道標

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高槻市下田部町1丁目30−16 東から来た道が北に折れ曲がり高槻城へ向かう、今は四辻の南東部に、西を正面に建つ
(札場の辻(高札が現存)であり、元は下田部村の中心地であろう。)
三角柱 50x西面24x北面21x南東面28p(南東方向に傾いている)
N34.834576 E135.619443


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西面
┌―――――――――――――――――――┐
│左 高川き京(ミち)         │
└―――――――――――――――――――┘
(「川」は変体仮名「つ」で、高槻)
(( )部は『高槻の道しるべ』より)

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│右 大坂               │
└―――――――――――――――――――┘

南東面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(『高槻の道しるべ』高槻市教育委員会発行、昭和58年刊では、8)
(この道標の隣の方の話では、「西から来る道は、芝生、唐崎方面からの道で、ここで北に折れ、高槻に向かうのが主
 たる道で、それを示すものである。」との事で、上記書では「(高槻城)大坂口から三島江へ」の道として載り、
 「大坂口惣門より三島江船着場鳥居前迄は一里二町四十間」『高槻城の研究』と紹介しているが、道筋は明らかでな
 い。としている。)
(三角柱の形状をしている。自然石を除き、この形をしたものは案外珍しく、他に
 「吹田市山田東4の道標」があり、
 「箕面市萱野3の道標」は、四角柱かも知れないが、見掛け三角柱
 等を挙げておく。
  勝手な推理であるが、これは辻に合わせてそうしたものでなく、元、石垣の角に組み込まれていたものが、何かの
 都合で今の位置に独立させられたものではなかろうか。最初から三角柱にしたものであれば、北東角のノミ跡なども、
 もう少し整形されると思うがどうであろうか。解説板の、矢穴痕から石垣転用の件に関しては何の知見もないが、
 ノミ跡の残るものとして、「川西市丸の内町5の道標」がある。)
(2021/5/22追記、「三田市母子新田の道標」も明確なノミ跡を持つが、城とは関係なさそうである。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を東に望む 【3.道標を南西に望む
 右(西)三島江へ  奥(東)西冠へ  右奥(西から南)芝生へ
 カーブミラー下に道標】  左、城の大坂口へ】  左は今も路地裏道】

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【4.道標を南東に望む 【5.道標西面拡大 【6.道標北面拡大
 右は現存する札場  「左高川き…」の  「右大坂」の横は
 左下、当道標】  「川」は「つ」】  キズであろう】

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【7.道標辻を北に望む 【8.道標上部を南東に望む 【9.道標南の解説板
 奥への道は昔のまま  三角柱である  「裏面に矢穴痕が…」
 の幅であろうか】  左端にノミ跡あり】  の信ぴょう性は】

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【10.高槻南部の道標】
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