吹田市山田東4丁目16−8 南北の小野原街道から西に山田街道が分岐する辻の北西部に南を正面に建つ
三角柱 74x南面24x25p(北西面上部は33p)(上部が太く下部が細くなっている)
N34.805268 E135.520280



南面
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│ 上新田村 │
│左 をか町 │
│ いたミ │
└――─―――――――――――――――┘
(「た」は変体仮名「多」)
東面
┌────――――――――――――――┐
│ をの原村 みのを │
│右 かちを寺 いけだ │
│ 妙見山 中山寺 │
└――─―――――――――――――――┘
(「だ」は変体仮名「多」に濁点)
北西面(三角柱の為)
┌────――――――――――――――┐
│(なし) │
└――─―――――――――――――――┘
(『すいた歴史散歩』<増補版>吹田市教育委員会では、15番目)
(横に建つ説明板に、(江戸時代)と解説されているが、根拠が書かれていない。そこで少し考えてみる。
この道標には、二地点に「村」が付いている。この村が明治11年の郡区町村編制法によるものである
なら、明治21年の町村制により、上新田村は新田村、小野原村は豊川村になっている為、この間の設立
となろう。
では、明治以前に、一般的に地名に村を付けて表現することは無かったかを見てみる。
明らかに明治以降のもの、施主等の住所に付いた「村」は対象外とし、調査範囲を、西宮、尼崎、伊丹、
川西、宝塚、芦屋、豊中、池田、箕面、吹田、と限定している。
1.「尼崎市次屋2の道標」に、 「左ハ次屋村大辯財天女 是より…」、
「右ハ久々知村妙見町 是より…」
2.「尼崎市東園田町4白井神社内の道標2」に、「右阿の村者可゛み」
3.「西宮市津門西口町14の道標」に、 「従是北二丁余 松原山昌林寺 津門村」
4.「西宮市六湛寺町10の道標」に、 「左越木岩村」、但し、建設時期不明
5.「宝塚市波豆向山東の(小)道標」に、 「右 (三田村)」、但し(村)筆者未確認
6.「吹田市南高浜町3六地蔵道標」に、 「左 帝釋天王 片山村 帝釋寺」
等があるが、寺などの所在地を示す場合に用いられることが、ほとんどであり、単純に目的地として使
われているのは、上記の内二件(4と5の)だけである。
「4.西宮市六湛寺町の物」は自然石に刻まれており、一見古く見えるが、刻字の具合から新しい可能
性があり、除外したい。そうなると、
「5.宝塚市波豆向山東の道標」にある「三田村」が唯一となるが、残念ながら、下部埋没の自然石で、
筆者の目では未確認であるため、これも除外したい。
よって、明治以前に「…村」を行先として使用した道標は無いとなる。
又、江戸時代の、元禄国絵図にあっては、小野原村はあるが、上新田村の記載は無く、天保国絵図
(天保9(1838)年)に到って、「佐井寺村の内、上新田」とあるが、「村」が表現されていないた
め上新田村の呼び名が一般的であったものかどうか、不明である。
これら「村」の字の使用と、呼名の一般性(慣用性)と、加えて、三角柱という、これも稀な形状
を持つ事とを考え合わせ、明治以降の可能性が高いと言えるのではないか。)
国立公文書館デジタルアーカイブ、「元禄摂津国絵図」はこちらを、
同、「天保摂津国絵図」はこちら参照。
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【1.道標を北西に望む |
【2.道標を南に望む |
【3.道標を北に望む |
右奥(北)小野原へ |
右(西)現山田駅へ |
左(西)現山田駅へ |
左奥、現山田駅へ】 |
奥、府道2号を市場へ】 |
奥(北)小野原へ】 |
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【4.道標を南西に望む |
【5.道標上部(下南面) |
【6.吹田市の道標】 |
「右…」が東面 |
下部の三角形に比べ |
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北西面は上部が出張る】 |
上部は削り残しが多い】 |
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吹田市山田東4の道標説明板
道標の北に建つ
N34.805268 E135.520280

山田三つ辻道標(江戸時代)
吹田市山田東四丁目十六
この道標は、むかしの山田村の中でひとつ
になっていた山田街道と小野原街道が分れる
ところに建てられていました。
左(山田街道)へ行くと上新田、岡町(豊
中市)やむかしの伊丹村に通じ、右(小野
原街道)へ進むと西国街道やいろいろな宗派
の由緒ある寺院へ参詣する道と結ばれていま
した。
この道標は、山田村と他の地域との交流や、
人々の生活と信仰のようすを伝える貴重な文
化財です。
┌──────────┐
│ をの原村 みのを│
│右 かちを寺 いけだ│
│ 妙見山 中山寺│
├──────────┤
│ 上新田(村) │
│左 をか町 │
│ いたみ │
└──────────┘
本道標は平成二年の道路
拡張工事の際、保存のた
め、元の位置から北西へ
十六・八メートル移動さ
させてあります。
(近辺の地図)【省略】
平成四年三月 吹田市教育委員会
(平成二十八年改修)
[私注 改修部分赤字とした]
(説明板にある元位置は、現交差点内を示しており、直近の移設地点であろう。
理由として、平成2年の道路拡張前を見ると、昭和42年(1967年)の地図には、当地に交差点は
無く、昭和53年(1978年)の地図には、三叉路として描かれている。
よってこの間(1970年は万博開催)に西行きの新道が付けられ、その時に出来た交差点であろう。
この交差点が出来た時点で、案内に相応しい位置に移設され、それを元位置と表現したとする。
では、建設当初の元々の位置は何処であったろうか。
明治44年の地図で見ると、現在地から150m程南東地点以外には、辻が見当たらず、この三叉路
にあったと思われる。
従って、元々の位置は、明治の地図にあった三ツ辻を、
その経緯度から推定すると、現、吹田市山田東4丁目20の三叉路
N34.804173 E135.521192
辺り(これを候補1)か、
現地地形から推定すると、更に上記の南60m、川が西に湾曲し、道は北に直進する地点が、分岐
点の痕跡のように見える、山田東4丁目13−29の南
N34.803735 E135.521603
辺り(これを候補2)とするのが妥当かと思う。)
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【7.元々の場所候補1 |
【8.元々の場所候補2 |
明治44年地図上の分岐点 |
地形的に分岐点として |
を現在地図に当て嵌めた】 |
此方がより自然かも】 |
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