43.能勢町倉垣歌垣神社南の道標

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能勢町倉垣1773 府道106七面口バス停から北西300m涌泉寺東の三ツ辻の西部に東を正面に建つ
頭丸角柱(ほぼ角柱) 64x21x12p(頂高1p)(碑面幅16x11p)
N34.983304 E135.464342


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東面
┌――――――――――――――――――┐
│      七面山迄二丁余りコレヨリ│
│右(指差像)同山不動御瀧迄半丁   │
│      正 面 牛 堂     │
└――――――――――――――――――┘
(「迄」はシンニュウに「占」と刻む)

北面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

西面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘

南面
┌――――――――――――――――――┐
│(なし)              │
└――――――――――――――――――┘


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では43)
(同書に「造立は七面山復興初期の大正末年から昭和初期のものである。」あるが根拠は書かれていない。)
(当道標の有る地点は此処までにある丁石風道標(2.52丁)の示す地点を過ぎており、この道標が
 改めて「二丁余り」とする点を見ると昭和の道標と同時に建てられたものでない事が分る。
 この道標に有る指差し像を持つ道標の多くが明治後期以降の銘を持つことが多く、三基の道標が「紀元二
 千六百(昭和15)年」と明記されていることによる。
  この道標の240m(約2丁)手前にある「倉垣七宝寺登拝口道標1/2」には指差し像は無いがこれに
 よく似ており、これと同時とするなら、大正十年十二月(192年)の建立となるであろう。)
(正面「牛堂」は「涌泉寺」を示すようで、此処にある説明板に「石用山涌泉寺(日蓮宗) もと真言宗
 龍泉寺とよび牛の守護仏大威徳明王を祀る牛堂があって、一月八日には牛を連れた参詣人で賑わった。」
 とある。)
(道標の北にある「歌垣神社」は横にある案内板の由緒書きによると、元は後背山腹にあり現地へ移設後に
 明暦元(1655)年領主能勢勝左衛門が宮の旧址に見延山七面天女を移した。とあり涌泉寺よりも七宝寺
 との関連がある宮のようである。
 この道標の案内も「七面山(七宝寺)」が主の様で「歌垣神社南の」とした。)
(注、能勢町史「歌垣神社」中に「また『能勢惣門中留記』には「祇園牛頭天王宮寺石用山涌泉寺…」と
 あり、西に隣接する涌泉寺が神宮寺であった事が知れる。」とある。)
(明治の地図では、七面寺へ向かう道はこの歌垣神社前を通る道が聯路として書かれ、昭和の鳥居が建つ
 ショートカットの道は小径の様に見え、参詣道としては神社前道が主であったと思われる。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 正面が涌泉寺  奥(北)七宝寺へ  奥(東)二町道標へ
 消火栓左が当道標】  右、二町道標へ】  左、七宝寺へ】

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【4.道標東面拡大 【5.道標東面上部 【6.道標東面下部
 右後ろにすぐに  「右」の下に  「是ヨリ」の「リ」
 歌垣神社の鳥居】  指差像がある】  が良く見えないが】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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