69.能勢町野間中の道標1/3

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能勢町野間中549-1 旧国道477号野間中交差点を東に20m道の北側、御旅所の南西部に南を正面に建つ
(北側の一基、他に南側に二基、「米屋」「京都中村」の道標がある。)
尖頭型角柱(西面やや短) 148x30x24p(頂高4p)(西面幅21p)
N34.946132 E135.456223


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南面
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│          大坂市西区石田町      │
│右 妙 見 山   施 土木請負業  金森仁太郎│
│        道 主  仝 町   鍋島政造 │
│左 奥之院妙見山  大坂市@区ABC町天野繁治 │
└――――――――――――――――――――――――┘
(「@区ABC町」は「南区大宝寺町」に見える)

東面
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│ 明治四十年八月建之              │
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北面
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│(なし)                    │
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西面
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│(なし)                    │
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(明治四十年は、西暦1907年となる。)
(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では69)
(同書に「「右妙見山道」はこの道標の立つ東へ向う道であり、「左奥之院妙見山道」はガソリンスタンド
 から北へ向う道で、地黄真如寺から奥ノ院へ通ずる。」とあり、この説明自体に問題はないが、明治28年
 刊の地図で見ると 当地点は三ツ辻で、西からの道は少し南(30m)で三ツ辻となる。大正15年地図も同
 じようで明治四十年時点では、南の稲地からと西の野間出野のから来て合流した後北に進む旧能勢街道か
 ら東折れするには是非とも必要な道標であったと思われ、元の位置は辻の角が相応しいとすると、三ツ辻
 (現道標より西20m地点)北東部の角に今の向きのまま置かれていたと思う。
  尚、妙見山奥ノ院は北への道を示すことから、地黄辺りから東へ進む道を案内している。
  道の南側に二基、「米屋」「京都中村」の道標があり、これらも同様に移設されたと考える。)
(施主住所の読めない部分を、大坂市南区大宝寺町とすると、wikiに「明治22年市制町村制により大阪市が
 成立と同時に南区も成立し、92町中に「大宝寺町東之丁、中之丁、西之丁」がある。」とし、今の島の内
 から西心斎橋辺りらしい。
  同じく、大坂市石田町は、明治33年に旧川南村大字石田より西区になり、現在の港区に名を残す様だ。)

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【1.道標を西に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 信号は野間中交差点  右側に他の二基  奥(東)妙見山へ
 左手前、妙見山へ】  左建物横に当道標】  左後方に御旅所】

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【4.道標南面上部 【5.道標南面下部 【6.道標南面下部拡大
 表面は汚れているが  「施主」を左右に書き  「金森仁太郎」は
 行先は読み取れる】  その下は見難い】  住所と業種の間にある】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】

2022年12月追記
 「左、奥ノ院」は地黄から真如寺を経由する奥ノ院本道(能勢町町史)を指し、「右、妙見道」は妙見山の
 本瀧道へ繋がる様であるが、現在では国道を離れ参道に向うまでに「奥ノ院八丁」丁石や「奥ノ院近道道標」
 が有る為気掛かりであるが、この道標建立以後の建設になるようで、奥ノ院へは北に進むとして問題ない。
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