69.1.能勢町野間中の道標2/3

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能勢町野間中510 旧国道477号野間中交差点の東20m府道南側民家庭中に北を正面に建つ
(北側に別の一基「土木屋」と、他に東隣に一基「京都中村」の道標がある。)
尖頭型角柱 90x22x22.5p(頂高5p)(基部8p含む)
N34.946083 E135.456152


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北面
┌―――――――――――――――┐
│左 妙見道          │
└―――――――――――――――┘

西面
┌―――――――――――――――┐
│  □            │
└―――――――――――――――┘
(□は窪みを示す)

南面
┌―――――――――――――――┐
│右 妙見道          │
└―――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――┐
│       願主      │
│左 天王ご江道        │
│       米屋丈助    │
└―――――――――――――――┘
(「ご」は「古」に濁点の変体仮名)


(『能勢の道しるべ』森本弌著1991発行では未記載。)
(同書の69(北側の道標)に「…以前「野間の建石」があり、それに街道名を示す道標とさらに妙見山道
 を教える道標が立っていた。」とあり当道標の事かも知れない。となれば、戻ってきたものと思われるが、
 やはり元の位置からは移動しているであろう。)
(東面にある「願主米屋丈助」は「野間中乾橋東詰の道標」や、「豊能町川尻の井戸道道標 」があり同書に、
 「米屋丈助は妙見山上で、旅館業を営む江戸末期から明治の人である。」としている。
  同じくその項に「天王ご江道」は「天王越え道」で「大堂越え道」をそう呼んでいたと説明されている。
 大堂越え道は現在の国道477と同じく、この野間中と兵庫県川西市黒川を結ぶ道であるが、明治の地図で
 は妙見山の西800mの大堂峠を越える道がありこちらを指すものであろう。この地点で「左」は南を指し、
 現国道方向となり道なりに進むと大槌峠となるが、120m南に三ツ辻が見られ、南東に分岐すると稲地に
 は行かず野間中の集落を南に廻り込み、乾橋から大堂への道に合流する。但しこの時の距離450m。当道
 標から東の前述の道標(乾橋)方面へ進み、村中から南行する場合の400mより長くなり、矛盾はしない
 ものの違和感が残る。北面の「左」とも筆跡が異なるようで、追刻等も考える必要がありそうだ。)
(西面の四角い窪みは道標頭頂より25pを上辺とし、25x10x-2pの大きさである。意味不明であるが、前
 述の乾橋の道標にもあり大きさは一致していないものの、なにか共通しているのではないか。(例えば橋
 の欄干として手摺を通していた等))

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【1.道標を西に望む 【2.道標を南に望む 【3.道標を北東に望む
 信号は野間中交差点  電柱右に当道標  奥の広場は御旅所
 左ブロック塀右当道標】  右手前は土木屋道標】  右から二つ目当道標】

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【4.道標を北東に望む 【5.道標東面中部 【6.道標東面下部拡大
 道路側からは見難い  「天王ご江道」は  「願主」「米屋丈助」
 左高い方が当道標】  「天王越え道」か】  ハッキリと読める】

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【7.能勢町西部の道標】 【8.能勢町東部の道標】
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