21.神戸市北区八多町深谷341の道標

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神戸市北区八多町深谷341 県道38号深谷交差点西430mの県道73号との交差点、筋違いの四辻の南東部に
西を正面に建つ。
山型角柱 93x23x18p(頂高3p)
N34.815943 E135.184312


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西面
┌―――――――――――――――――――┐
│   右 ありま           │
│奉供養西國三拾三所 道        │
│   左 京大坂           │
└―――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――┐
│嘉永六丑三月吉日           │
└―――――――――――――――――――┘

東面
┌―――――――――――――――――――┐
│    平兵ヱ  吉蔵        │
│    清兵ヱ  喜兵治       │
│ 同行 惣兵ヱ  五兵ヱ       │
│    源右ヱ門 与吉        │
│    治兵ヱ  重三郎       │
│         栄治郎       │
└―――――――――――――――――――┘

北面
┌―――――――――――――――――――┐
│(なし)               │
└―――――――――――――――――――┘


(嘉永六(癸丑)年三月1日とすると、西暦1853年4月8日金曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊では北区37)
(同書の人名の読み下しが一部異なり「喜兵治」を「嘉兵治」、「栄治郎」を「栄次郎」としている。)
(同書に「この辻は湯乃山街道と播磨街道が合して淡河宿へ向う、このあたりでは最も多くの旅人が通ったところで
 ある。「右ありま」は附物・柳谷・五社を通って有馬へ、「左京大坂」は千本地蔵・八多を通り吉尾にて播磨街道
 に分かれて東へ向かい、田尾寺・名塩・生瀬をすぎて丹波街道を神崎方面へ行く。」としている。補足しておくと
 播磨街道とされるのは明治の地図では、当道標地点から北東の千本地蔵へ向い現上八多駐在所の辺りで県道38号に
 呑み込まれている道で当時は三ツ辻であったと思われる。尚、播磨地方から京へ向う場合は大阪方面へは進まず三
 田へ向いその後東進するのが一般的で、大坂へは播磨街道から分岐する形になる。「右有馬」へ進むと300m程で
 「北区八多町附物の道標」に続き、北から来てこの南への道が現県道73号である。
 北湯乃山街道は西から当道標に来てこの73号を南東に入る道を呼ぶようであり、当時は附物バス停がある県道506
 号は存在せず、東の有馬への経路説明は「柳谷・五社を通って」とし「附物」を含めない方が分かり易いであろう。
 この旧い道は、今(2020)も柳谷の皿池橋に出る道として残っている。)
(西面の題目下の「道」は楷書で書かれているが、「首」の上部が「川」の様に刻まれており、その部分だけ篆書の
 書き方に似せたものか分からないが「八多町深谷1126の道標」にもあり、30年後ではあるが同一石工等も考え
 られるか。
  東面の人名「吉蔵」の「蔵」が四角く一段彫り込まれた上で刻まれている。これは後日の追刻などではなく誤字
 を犯した東面全てを彫り直す手間を避けた為と想像する。きっと工賃を値切られた事であろう。)
(西には「八多町屏風1053の道標」があり、北東に「八多町附物極楽寺の道標」の元位置へと続き、主要な辻で
 あったと考えられる。)

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【1.道標を北東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南東に望む
 奥、千本地蔵へ  奥(西)屏風へ  奥(東)柳谷へ
 左(西)屏風へ】  左(東)柳谷へ】  ポール左に当道標】

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【4.道標北面拡大 【5.道標西面拡大 【6.道標南面上部拡大
 施主であろう  「右…、左…」は  「嘉永六丑…」
 下段の名前】  良く読める】  風化はあるが読める】

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【7.道標西面拡大 【8.道標西面下部 【9.道標南面下部拡大
 「左京大坂」の  「…道」は楷書で  「…三月吉日」
 大坂分岐は吉尾か】  余り見かけない】  と読める】

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【10.北区東部の道標】
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