42.神戸市長尾町赤松峠の道祖神道標(三基の内北側)

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神戸市北区長尾町上津4633 中国縦貫道赤松PA下りSAの東100m地点の一般道の三ツ辻の東40m地点の民家脇
を舗装路を外れ北へ40m入った竹藪中に南東を正面に建つ
(長尾神社鳥居前から西へ770mが民家脇入口でもある。)
(南側に二基「地蔵道標」「供養塔台石道標」がある)
自然石 102x51x54p(台石30x108x66p)(最下段石垣高40p)
N34.884543 E135.166448

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南東面
┌─――――――――――――――――┐
│ 右 丹波  往 施主      │
│       来   三田何某  │
│道祖神      播州宮村何某  │
│       安   東畑何某  │
│ 左 ひめし 全   □□何某  │
└―――――――――――――――――┘
(□□を『神戸の道しるべ…』は「佐原」とする)
(「竹原」かも知れない)

北東面
┌─――――――――――――――――┐
│ 弘化二年乙巳八月建之      │
└―――――――――――――――――┘
(同書は「二年」を「弐、貳」とした様だ)

北西面
┌─――――――――――――――――┐
│(なし)             │
└―――――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――――┐
│         摂州      │
│           上村何某  │
│             何某  │
│             何某  │
│             何某  │
│         同 下村    │
│             何某  │
└―――――――――――――――――┘


(弘化二(乙巳)年八月1日とすると、西暦1845年9月2日火曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(『神戸の道しるべ北区(1)』山下道雄では、長尾町1)
(同書に「今は中国自動車道で断ち切られてしまったが、吉川方面に向かう旧県道が通っていたという。」とあるが
 江戸期には国境であり、播磨への重要道であったと思われる。「天保国絵図」にも「澤谷村より播磨國小屋寺村迄
 弐拾五町、此赤松峠播磨國にても同名」と書かれている。明治の地図を見ると下りサービスエリア部分を除き、今
 と同じ道が描かれており、現在の舗装道から北に登り道祖神の南を抜け自動車道を越えて、大きな病院の西で県道
 356号に出る道が「右丹波」で示される道になり、「左姫路」は舗装道(旧県道か)を西に進む事を示していると
 思われる。現在(2020)当道標が建つ位置は直線部分にあって「右」の道は無い。依って案内を必要とする元位置
 は40m南西の舗装道の三ツ辻(今は辻には見えず民家脇とした)に南東面して置かれていたものとしたい。)
(施主に「摂州」「播州」両国名が見えることでも分かるように、国境の守り神でもあり道案内でもあった為、行先
 も「姫路」「丹波」と大きく示したと考える。因みに背面に「すぐ大坂」等あるかと思い探したが無かった。
  「何某」の前に付くのは村名だと想像できるが、摂津で三田(現三田市)以外が分かり難く、「上村、下村」は
 現神戸市北区長尾町上津の上津上村と同下村であろうか。天保国絵図より、播州側は東畑村は現三木市吉川町東田
 と思われ、「宮村」は今の三木市吉川町有安辺りと出来そうである。もう一村読めないでいるものを「竹原」とす
 る(前述の書では「佐原」とする)と現三木市吉川町稲田に比定しうるが、どうか。)
(天保国絵図は国立公文書館のデジタルアーカイブ「摂津国」「播磨国」を参照下さい。
  尚、上記国絵図や「元禄国絵図摂津国」をよく見ると、当道標のある道筋は「椴(トド)ガ辻」となりそうで、
 「赤松峠」はもう少し北を通る道の様に受け取られる。理由として澤谷村(三田市)から赤松峠を通り、小屋寺村
 (加東市吉川町福吉)迄の距離が二十五丁(2.7km)と書かれているのが一点。二点目として椴ガ辻の南に岩谷村
 (長尾町上津4203辺り)があり、その道を東に辿ると川(多分、長尾川)に沿って高坂池の北を抜けて上津上村
 (岩谷口交差点辺り)に至る様子が、現在の道とほぼ一致する点である。しかし明治の地図ではこの位置に間違い
 なく「赤松峠」と書かれており悩ましいことである。
  国立国会図書館デジタルコレクションの『五畿内志下巻』コマ番号76、では「赤松嶺」として「三木郡界から
 岩谷へ4丁(440m)、道場川原迄1里25丁(6.6km)とし、途中上津上、上津下、宅原、下宅原」としており、
 国絵図の誤りの可能性が高いが、今後の調査としたい。
  因みに、「椴ガ辻」は「トドマツガ辻」と読むのかも知れず、こうなれば「あかまつ」対「とどまつ」の戦いで
 もあろうか。)
(北西面の紀年を前述の書では「右面の年号が、異体字なのかよく読み取れない。」とした上で「二」としている。
 確かに古文書で数字を書く場合「壱、弐」等よく使うが、改竄防止と読み易さを意識するもので、石碑の場合画数
 が多い場合は彫り方を変えたりすることや、改竄も考慮しないと思われ、二本の横棒とその下、横線数本を縦に貫
 くものを一字とし「二年」とした。確かに「二」の左右に「八」様の線が見えるが、「弐」等であればもう少し別
 の書き方になるとしてこれを無視した。又その直下に二本の短い縦棒が離れて見えるがこれも無視した。)
(「右丹波」に向かえば「三田市馬渡の道標」に繋がり、左は「長尾町宅原バス停の道標」から姫路を目指した人達
 が進む道であったろう。)

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【1.元位置を北西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北西に望む
 右ポールに向け登る  中央竹藪の奥まった  右端が当道標
 地道が丹波への道】  地点に当道標等】  左奥、丹波への道か】

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【4.道標南東面左部 【5.道標南東面上部 【6.道標北東面上部
 「左ひめし」の  「道祖神」は  「祖」の右下から
 「め」は小さい】  「さいのかみ」か】  「丹波」とある】

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【7.道標南西面下部 【8.道標南東面下部 【9.道標北東面中部
 「摂州」等が見える  施主と村名であろうが  「弘化二年乙巳」
 「上村」は村名か】  「何某」では味気ない】  と読み下した】

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【10.道標を西に望む 【11.丹波への旧道上より 【12.道標北東面下部
 右端が当道標  道標を南東に望む  「…八月建之」
 石垣、台石に載る】  背後はSAで行止り】  と読める】

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【13.北区東部の道標】
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