40.神戸市長尾町赤松峠の供養塔台石道標(三基の内南側)

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神戸市北区長尾町上津4633 中国縦貫道赤松PA下りSAの東100m地点の一般道の三ツ辻の東40m地点の民家脇
を舗装路を外れ北へ40m入った竹藪中に南東を正面に建つ
(長尾神社鳥居前から西へ770mが民家脇入口でもある。)
(最も北に「道祖神道標」、すぐ北に「地蔵道標」がある)
尖頭型角柱、台石部 62x28x28p(頂高3p)(台石16x43x43p)
N34.884510 E135.166448


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南東面
                   ┌─―――┐
                   │ 小屋寺│
                   │右   │
┌─――――――――――――――――┐│ きよ水│
│                □││    │
└―――――――――――――――――┘│ 毘沙門│
                   │左   │
                   │ 竹原 │
                   └――――┘

北東面                ┌─―――┐
┌─――――――――――――――――┐│    │
│(なし)             ││(なし)│
└―――――――――――――――――┘│    │
                   └――――┘

北西面                ┌─―――┐
┌─――――――――――――――――┐│    │
│安政六未四月日 吉川市ノ瀬安吉  ││(なし)│
└―――――――――――――――――┘│    │
                   └――――┘

南西面                ┌─―――┐
┌─――――――――――――――――┐│    │
│ 天下泰平   □□八十八所   ││    │
│        西國三十三所   ││    │
│(梵字)奉供養          ││(なし)│
│        □栂三十四所   ││    │
│ 日月清明   坂東三十三所   ││    │
└―――――――――――――――――┘│    │
                   └――――┘
(梵字はキリーク如意輪観音の種子か)



台石南東面
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台石北東面
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台石北西面
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台石南西面
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(安政六(己未)年四月1日とすると、西暦1859年5月3日火曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(台石南東面にある道標部を見ると「きよ水」だけが平仮名で他は全て漢字となっている。これを播州「清水寺」と
 解釈すれば各地名は全て比定可能である。清水寺へは現道標の前を北西に進む道であり、小屋寺は現三木市吉川町
 福吉にある東光寺でこれも北西の道をとれば(赤松SAで分断なし)1km強にある。一方「左」の竹原は明治の地図
 で「稲田竹原」とある集落が今の三木市吉川町稲田にあり、毘沙門は同じく吉川町毘沙門が現在でも残り、道標の
 南東40mの舗装路を西(左)に進めば3km程の距離と思われる。四地点全ての案内を満足する辻はこの南東40m
 の民家脇となる、
N34.884107 E135.166675
 辺りと思う。この辻の西部に南東面して置かれていたとしたい。)
(上部の供養塔と一体のものと思われるが、現在の配置のままであるなら南西面が正面となり、これが主要道に面し
 ていたすれば、他の二石も含め三基揃って現在地に移されたと考えられる。そうすればこの道案内が正面ではなく
 右面(南東面)に書かれていることもうまく説明できる。)
(施主であろう安吉さんの住所が市ノ瀬(現吉川町市野瀬)であるのに「毘沙門」を案内しているのは、主要道がそ
 ちらに通じていて目的地とする人も多かった為であろう。明治の地図では県道か達路として描かれ、尾根筋を忠実
 に辿り毘沙門の役場に通じている。尚、市野瀬へは、上記元位置とした地点から30m西で谷筋に下る道を採れば、
 現県道17号の市野瀬大歳神社へ出ることが出来る。)
(右(北西)に進めば「三田市馬渡の道標」に繋がっていたはずで、それにも「右きよ水」とある。)
(供養塔部の気になる点を挙げておく。南西面読めない部分で「十八所」の上は「四国」で間違いないでしょうが、
 「三十四所」の上が一般に考えられる「秩父」の字に見えず、二文字目が「栂」のように思われる。
  数字をすべて足すと88+33+34+33=188となり、この「百八十八ヶ所」の記述を持つ巡拝供養塔の
 「箕面市如意谷2の道標」の裏付けに成ると思うが、当供養塔の四つの巡礼地の内一部が欠けていることは、残念
 である。広く参拝されたようで裕福な方であったものか。
  南西面はほぼ剥離しているが最下部に一字残っているが読めない。「門」にも見え名前であろうか。
  北西面の年号「安政」の「政」が扁と旁を上下に分けて彫られている。)

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【1.元位置を北西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標南東面拡大
 右ポールに向け登る  左端が当道標  上部の面は文字なし
 地道が丹波への道】  左奥、丹波への道か】  台石部に案内あり】

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【4.台石南東面左部 【5.台石南東面中央 【6.台石南東面右部
 左右に「毘沙門」  「左」の上部が  「小屋寺」と
 「竹原」と読める】  摩滅するが…】  「きよ水」であろう】

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【7.台石南東面毘沙門部 【8.供養塔南西面拡大 【9.供養塔北西面拡大
 「毘沙門」はくずし字  「四国八十八」と  「安政六未」の「政」は
 吉川町毘沙門とした】  「秩父三十四」としたいが】  扁「正」を上に彫る】

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【10.北区東部の道標】
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