35.神戸市北区大沢町日西原52の道標

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神戸市北区大沢町日西原52 県道82号大沢小前交差点を東に橋を渡り道なり290m、突当りに思える四辻の西部に建つ道路元標の北側を西に10m入った旧道突当り民家石垣中に北東を正面に建つ
自然石風 63x37x13p(厚みはほぼ一定、幅が上部にかけて山型をなす)
N34.857600 E135.166810

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北東面
┌─―――――――――――――――┐
│    右三田道(場)     │
│西國供養            │
│    左吉川竹□       │
└――――――――――――――――┘
(( )部は『大沢町誌』より)
(「竹□」を『大沢町誌』は「稲田」とする)

北西面
┌─―――――――――――――――┐
│□□…             │
└――――――――――――――――┘

南西面(写真無)
┌─―――――――――――――――┐
│(不明)            │
└――――――――――――――――┘

南東面
┌─―――――――――――――――┐
│天保十一年同行         │
└――――――――――――――――┘


(天保十一年(庚子)1月1日とすると、西暦1840年2月3日月曜日となる。)
(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(『大沢町誌』には「当道標は大沢村道路元標と共に、倉が坂越線の途中の分岐に立っていたが、現在は路線が変わ
 り、その旧道路に…家のブロックが作られた結果、道標の背面が接する状態となっている。」としている。
 現在(2020)では、東15mに「道路元標」があり、そこが四辻(旧道跡を含めると五つ辻)になっており、道路
 が付け替えられたことが窺える。ご近所の方も小学校への道が市道であり、道標のある部分は私有地ではないかと
 のことであった。
  明治の地図で見ると、北の吉川方面から来た道がS字状に南西の小学校方面に向かう地点に、東の倉ヶ坂からの
 道が合流する三ツ辻に描かれており、今でもその形状は確認できる。即ちほぼ元の位置を保っているが辻の北東部
 から西に移され、180度向きを変えて民家の塀に埋め込まれたと考えられる。よって元の状態で「右三田道場」は
 倉が坂を越え長尾町上津へ出る道を示し、「左吉川稲田」は北へ進み取り敢えず日西原天満神社に向かう道となろ
 う。昭和25(1950)年発行の地図も同様に見えるが、昭和42(1967)年の地図では現状の道の様に見える。)
(南東面の紀年は少し怪しいが「天保十一年」はほぼ読める。その下は月日とせず、「同行」の右側が見えていると
 判断した。又、北西面にもキズではない文字らしいものが確認できるがこれは読めなかった。)
(形状を自然石風としたが、元は蒲鉾型角柱では無いかと思う、整形されていたものが欠損や風化により今の先細り
 になったとしたい。北東面の左右には龕の名残が見え、その左右の面も彫下げられているようだ。題目を書いた石
 であることからも、よくある形式のものだったと思える。)
(北東面の行き先「左吉川」までは読め、その次を「竹」とした。右側の「三田、道場」は長尾町上津迄同じ道を進
 みそこで分岐して目指す二地点である事は疑いない。では「左」はどうであろうか。
 右に合わせて、「吉川」と「竹□」の二地点とするより、「吉川の竹□」であろう。『大沢町誌』が「吉川稲田」
 として、現在の三木市吉川町稲田を示しているとする如く一地点として不都合はない。国絵図からも「吉川村」、
 「吉川町」は見えず、郡名にも見えないが地方の名称として常用されたものと考える。そこで町誌の「稲田」の読
 みであるが「稲、稻」のくずし字にも該当せず、「竹」の左を「イ」と書いたものと思われ、「天保国絵図播磨国」
 の「毘沙門村」の西にある「竹原町」に当たるのではないかと思う。この竹原町は今の吉川町稲田に当たる。
 依って下部はほぼ剥落しているが「原」の上部が残るとし「左吉川竹原」としたい。)
(南に出て西50mに「地蔵堂の道標」、東に進み「大沢町日西原の道標」から「長尾町上津1490の道標」と続き、
 北に進めば2km程度で播磨の国境となる。
 又南は遠く「八多町深谷1126の道標」であろうか。国立公文書館のデジタルアーカイブの「天保国絵図摂津国」
 では深谷村から、上・中小澤村、日西原村、簾村、と朱書きの道があり「ほうじの尾」を国境とする様子が書かれ
 主要道であったと思われる。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を南東に望む 【3.道標を南に望む
 奥左へは隣家へ  奥(東)光山寺から  写真撮影地点が
 右(北)吉川稲田へ】  長尾町上津へ】  旧道吉川方面か】

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【4.道標を南西に望む 【5.道標を上から望む 【6.道標を南東に望む
 ブロック塀を左から  下辺が北東面  右下、当道標
 右廻り込み小学校へ】  左、道路元標へ】  左奥の辻に元標】

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【7.道標南東面上部 【8.道標北東面上部 【9.道標北西面上部
 「天保…」  「西國供養」と  「戸」の様な書出しが
 は間違いなさそう】  何とか読める】  残っているものか】

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【10.道標南東面下部 【11.道標北東面下部 【12.道標北東面左下部
 「十一年同…」か  「右三田道…」と  「…川竹…」とすれば
 「十一年月…」か】  「左吉川竹…」か】  「…川竹原」と考える】

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【13.北区東部の道標】
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