13.神戸市長田区駒ケ林町5丁目7の道標2

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神戸市長田区駒ケ林町5−7−11 高松線長田港北交差点の東120mの腕塚への路地を南に40mの筋違い四辻を
東へ10mの三ツ辻の南西部に北西を正面に建つ
(忠度腕塚北20mの路地三ツ辻でもある)
(路地を挟んで東に「道標1」が建つ)
尖頭型角柱 112x20x23.5p(頂高5p)(像部9x20x1.5p)
N34.648889 E135.146635


写真himg0865

写真himg0866

写真himg0870

写真himg0875

北西面
┌─――――――――――――――――――――――――┐
│うでづか                     │
└―――――――――――――――――――――――――┘

南西面
┌─――――――――――――――――――――――――┐
│(なし)                     │
└―――――――――――――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――――――――――――┐
│攝 綿谷善次郎 □野米吉  碓井辰蔵 鎌谷□□□ │
│津       石田拾次郎 石田寅吉 二見谷   │
│□   二   酒井拾次郎            │
│  野口久治郎 大林               │
└―――――――――――――――――――――――――┘
(読取れた部分のみ載せた、上一行除き人名と思う)

北東面
┌─――――――――――――――――――――――――┐
│(左指差像)うでづか               │
└―――――――――――――――――――――――――┘


(『神戸の道標』山下道雄、神戸新聞、1985年刊には未記載)
(当道標の立つ辻は、忠度腕塚から見れば僅か20m北に当たる。しかしここに案内が無いと探し当てる事は難しい。
 明治の地図でみると浜街道筋は曲がりくねった路地で、その上辻だらけであるが、これ程路地の奥に建つところを
 見ると、移設される事は無くほぼ元の位置ではないかと思う。
  依ってこの三ツ辻に立ち南の塚方面を見ると北面が正面になり、方向を示さずとも標石の機能として「うでづか」
 だけで役割を果たす。東から来た場合は南(左)へ曲がる必要が有るため「左指差し像」を彫ったものであろう。
  この指差し像を用いる道しるべは大正頃の道標が多く、石も新しく見え、江戸期の摂津名所図会には「忠度塚」
 として「うで」を付けておらず、土地の人は明石のものを「うでづか」としていた事等から、建立時期は明治期以
 前には遡らないであろう。「駒ケ林町5丁目8の道標」では「うで」とは表現されていない点や
 施主と思われる全員に姓名が書かれている事等も合わせて考えてみてください。
  北西面の「うでづか」を上記では案内と見なしたが、方向や指差像が無いので、建設地点の名を示すものだとす
 ると、Wiki「神戸市の土地区画整理事業一覧」に「旧耕地整理法を活用したもの」として神戸西部耕地整理事業
 (事業は1910〜16(大正5)年)が実施されたとあり、一方、神戸市HPより>区役所>長田区>計画・取り組み>
 区民まちづくり会議>区民まちづくり会議>おもろい部会>区民まちづくり会議>おもろい部会と辿りそのページ
 にある『長田区の地名紹介』にある、PDF「長田区南部3」の資料に「大正時代の西部耕地整理の際、腕塚町と名付
 けられました。」ともある事から大正5年(1916)以降の建立と言えるかもしれない。)
(指差し像と紀年を持つものは「長田区西山町1の道標」「兵庫区東山町4大正の道標」等を参照下さい。)

写真himg0861 写真himg0862 写真himg0864
【1.道標を東に望む 【2.道標を北東に望む 【3.道標を南東に望む
 筋違いの路地四辻  奥100mは路地  奥20m左に腕塚
 より金網越し道標】  右側が当道標】  直70mで海岸へ】

写真himg1744 写真himg0898 写真himg0871
【4.道標東面拡大 【5.道標南東面上部 【6.道標南東面中部
 左指差しは南へ  「摂津…」は  人名が見える
 後は筋違い四辻】  住所であろうか】  だけと思う】

写真himg0872 写真himg0873 写真himg1749
【7.道標南東面中部2 【8.道標南東面下部 【9.道標上部を南西に望む
 同じく  四段目の  上部左側の指差し像の
 人名であろう】  人名部分】  浮彫は1.5p程度】

写真gimg6519
【10.神戸市南西部の道標】
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