1.大阪市福島区玉川1の道標

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大阪市福島区玉川1−3−7 下の天神社門内南に北西を正面に建つ
尖頭型角柱 192x28x28p(頂高5p)(屋号印:外径φ22p、幅2p、図柄高17p)
N34.688472 E135.482672


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北西面
┌─――――――――――――――┐
│右ハ 婦ち名所春日社是(より)│
└―――――――――――――――┘
(「婦」は変体仮名「ふ」「藤名所」か)
(( )部は『大阪の街道と道標』より)

南西面
┌─――――――――――――――┐
│願主 山名礒兵衛建之     │
└―――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――┐
│ (屋号印)         │
└―――――――――――――――┘
(屋号印「〇」に「へな」で山名か)

北東面
┌─――――――――――――――┐
│天文元壬辰年         │
└―――――――――――――――┘


(天文元(壬辰)年7月29日なら、ユリウス暦1562年8月29日、グレゴリオ暦1562年9月8日木曜日となる)
(元文元(丙辰)年4月28日なら、1736年6月7日木曜日となる。これとする資料あり、念のため。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、599)
(春日神社が玉川2−2−7に有った様で此処を示すものとし、下の天神社門前より春日神社への道程を明治の地図
 で見ると、北東へ50mの辻を西へ折れ道なりに300mの今は無くなっている三ツ辻を南に折れ40mとなる。道標が
 門前に置かれていたとしたら、上記の一直線でない400mの道を案内した事になるが、藤の名所を巡る一連の案内
 とすれば、その経路上どこにでも置かれていた可能性があり元位置は難しい。)
(北東面の「天文元壬辰年」を建立年とするか、しないか。建立年とするには余りにも古い為か、「元文元丙辰年」
 とする資料があるが、文字は「天文」である。大阪府内最古の道標とされる「高槻市田能の供養塔道標」が宝徳三
 (壬申)年三月とあり仮に1日なら、グレゴリオ暦1451年4月11日金曜日となり、ユリウス暦では同年4月2日で
 ある事からすれば特別に古過ぎる訳ではないが、物見遊山的な道標という意味では江戸期としたくなる。ただ、こ
 の紀年が建立年ではなく、神社や藤に関する出来事等と関連するものなら何の問題もない。見た目の通り読み下し
 は「天文元壬辰年」とした。
  野田の藤に白藤なるものが有るらしく、天文元年の「本願寺合戦」で被災した藤から生まれたとの逸話がある様
 で、チョットした博識を披露したものとしたい。
  「山名」とある石碑の内、野田恵比須神社内の石に、正面「ゑみのすみや」、右面「永久三年三月(1115年)」
 左面「山名礒治建立」とありこれ等と同じく、この道標も建立年では無いと思う。他に「福島区海老江6の道標」
 も参照下さい。)

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【1.下の天神を西に望む 【2.道標を南西に望む 【3.道標を東に望む
 やや左街灯後辺りに  右枠外、神社本殿  門出て20m堂島川北へ
 当道標、壁で見えず】  左、宮比神など】  左枠外、幼稚園】

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【4.道標を南に望む 【5.道標北西面拡大 【6.道標南西面拡大
 左面の紀年は  「右ハ婦ち名所…」  「…山名礒兵衛…」
 建立年ではない】  春日社へは400m】  と読める】

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【7.道標北東面上部 【8.道標南東面下部拡大 【9.道標南東面拡大
 「天文」はてんぶん  「是(より)」としたが  〇印に「へな」は
 と読むようだが】  四丁等距離があるかも】  山となで「山名」】

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【10.道標北東面中部
 「元壬辰…」は
 みずのえたつ年】

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【11.大阪市福島区の道標】

【参考】野田恵比須神社の石碑

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【12.石標南東面 【13.石標北東面 【14.石標北西面
 「山名礒治」とある  「ゑみすのみや」とある  「永久三乙未年三月」
 屋号印は無し】  裏は「御神祭日…」】  境内金刀比羅社の右】

 2023/10/8 【追記】
  山名礒兵衛に関する資料が中央図書館に有り、その内容を抜粋しておきます。
 『野田藤と円満寺文書』内田九州男、2003年刊より
 座談会『野田藤と山名道しるべ』から
 (語り手、井形正寿 聞き手内田九州男)
 山名、屋号は米屋。
  道標・道標関連のものが大阪市内に14基ある。
  名称             場所          紀年          当摂津国道標での扱い
 1.手洗鉢碑           野田恵美須神社     永正八未年       対象外
 2.墓碑(やまな塚)       吉野3、西野田墓地か  天文元壬辰       対象外
 3.墓碑(池田平次郎墓)     吉野3、西野田墓地か  寛保二壬戌歳六月二日  平成11年消失
 4.社名碑(春日社)       野田天神社       天文元壬辰年      当道標
 5.社名碑(恵比寿宮)      野田恵美須神社     永久三乙巳三月     対象外、当記事の【参考】
 6.社名碑(蛭児社)       野田恵美須神社     元文三戊午十二月    対象外
 7.社名碑(恵比寿宮)      野田恵美須神社     明和二乙戊(戌)十二月  対象外
 8.社名碑(住吉神社)      住吉区住吉神社     なし          「福島区梅香3の社標」
 9.寺名碑(本遇寺)       野田本遇寺       なし          対象外
 10.寺名碑(妙徳寺)      東大阪市額田町妙徳寺  なし          未調査
 11.旧跡碑(證如上人・極楽寺) 野田極楽寺       明和六己丑十月七日   対象外(灯籠)
 12.旧跡碑(信受院殿・円満寺) 野田円満寺       なし          対象外
 13.道標(羽間家前)      海老江羽間家前     なし          「福島区海老江6の道標」
 14.道標            鷺洲小学校       慶応元丑年五月     未調査「福島8の道標」

  野田藤顕彰碑関連が6基
 1.記念碑(泰聖寺)       下寺町泰聖寺      明治29年       対象外
 2.塔碑 (壺阪寺)       高取町壺阪寺      不明          対象外
 3.顕彰碑(野田の藤跡)     玉川2、春日神社    昭和36年       対象外
 4.名称碑(藤庵)        天神社(下の天神)    文禄3年        対象外
 5.名称碑(野田ふじと藤邸の庭) 天神社(下の天神)    昭和48年       対象外
 6.顕彰碑(野田藤)       玉川2、春日神社    平成5年        対象外

  『願主、「米屋磯兵衛」は靭の名田屋さんの使用人で、主人の命を受けこれ等を建てたする伝承が
 ある。』と『第一西野田郷史』に載る。
  極楽寺文書(宝暦十(1760)年〜天明八(1788)年)に次の様な名前が見受けられる
 1.宝暦十年   弓場町、磯兵衛
 2.宝暦十三年  米屋磯兵衛
 3.宝暦十四年  弓場町、磯兵衛
 4.明和二年   門徒総代、磯兵衛
 5.安永八年   門徒総代、磯兵衛
 6.安永九年   輪番御馳走役、磯兵衛
 7.安永十年   世話役、米屋磯兵衛
 8.天明二年   米磯
 9.天明四年   米屋磯兵衛
 10.天明五年  弓場町世話人、磯兵衛
 11.天明八年  磯兵衛
  碑面にある天文元年が建立年を示すかについて。
 上記を見ると、何代か続いていたとしても、天文元(1532)年に建てたとは考えにくい。
 極楽寺前の碑(建立は明和六年)に
 「天文二巳年八月九日 当村二十一人討死 御書御法事毎年三月八日九日」(本願寺騒動)とあ
 る事から、証(證か)如上人が来た頃を想定し天文元年としたものか。

  名田屋さんに関しては、『山名氏の建碑と野田藤』の項で
 今から約280年前(1649年頃か)、靭町に名田屋利兵衛という雑魚及肥料の問屋があった。信仰心の
 篤い彼は春日神社の社殿修築をし、100年後に名田屋の元傭人であった米屋磯兵衛が主家初代の効
 を思い明暦十三年に改修を行った。磯兵衛は明治時代まで戎神社前に住んでいた。

【結論】
 当道標の「天文元壬辰年」は天文二年の本願寺騒動の前の事、山科本願寺が襲われた時野田福島の
 一向宗の門徒達が舟で證如上人を野田御堂に迎え、その後大坂本願寺に入られた年を書いたもので、
 建立年では無い。

写真jimg5204
【12.『野田藤と円満寺文書』
 上は平成11年に消失した墓碑
 下は社名碑とするが、「右ハ…」
 とあり、当資料では道標とする】
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