9.大阪市生野区桃谷3の道標

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大阪市生野区桃谷3−18−32 鶴橋小学校南東20mの広い五つ辻を南東へ茨神社通りを20mの四辻を東へ80m
の筋違い三ツ辻東部に南西を正面に建つ
(猪飼野保存会館前、南北の道は鶴橋街道か)
尖頭型角柱 82x29x28p(頂高5p)(龕部下11pより西面61x18x-1p、南面61x15x-1p、北面61x15x-1.5p)
N34.658449 E135.534668


写真himg4993

写真himg4979

写真himg4980

写真himg5030

南西面
┌─――――――――――――――――┐
│右 八尾久宝寺          │
│   信貴山           │
└―――――――――――――――――┘

南東面
┌─――――――――――――――――┐
│左 大阪             │
└―――――――――――――――――┘

北東面
┌─――――――――――――――――┐
│ (なし)            │
└―――――――――――――――――┘

北西面
┌─――――――――――――――――┐
│ 慶應二年            │
│  丙     鐘講       │
│   寅二月建之         │
└―――――――――――――――――┘


(慶応二(丙寅)年二月1日なら、西暦1866年3月17日土曜日である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、588
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行では、32頁)
(道路概況を書いてみる。当地から南へ直線で130m辺りの近さに「生野区勝山北4の道標3」が建つが、この南北
 の茨神社通り(桑津街道)と当地を南北に通る鶴橋街道は、旧平野川を挟み、当地が右岸(東)堤上の道で、両道
 東西80mの間に橋が架けられていた事が明治の地図で読み取れる。この橋を「つるの橋」と呼んでいたらしく、
 西60mの道北側に「つるのはし跡碑」が設けられ、その解説板に書かれた元禄時代の古絵図が興味深い。
  即ち、猪飼野村と西の木野村の間に大きな橋の絵が描かれているが、猪飼野村側に橋に繋がる大きな道が書かれ
 ておらず、南の小路村と岡村の南部に細い橋が描かれ、この道が朱書きの主要道で「春徳道」としている。小路村
 からは、今の東大阪市の横沼の北を通り当時の大和川の船渡しで、北の十三越道と合流している。平野川の両岸に
 は道が描かれてはいないが道が有ったのは間違いないと思う。)
(大きな移設が無いものとし、道標解説板の様に市内(当時は大坂町内)の人々が信貴山を目指すとするなら、谷町
 六丁目より北に住む人は細工谷から木野村北部へ、安堂寺町以北なら玉造駅から南へ進み木野村北部に達し、木野
 村内で東折れし「つるのはし」を渡りこの道標の西面(南西面)を目にし南折れした後川に沿って東進であろう。
  平野川左岸(西岸)の道を南行(農人橋から舎利寺)した様子が、蜀山人(太田南畝)の『葦の若葉』(国立国
 会図書館デジタルアーカイブの『蜀山人全集.巻1』吉川弘文館のコマ58享和元年七月七日の項)辺りに書かれ
 ているが、1801年8月15日になり、当然ながらこの道標(1866年)の事は書かれていない。)
(上記、信貴山にこだわり書いてみたが本来は「鐘講」が信貴山ゆかりなのか、八尾久宝寺所縁なのかをハッキリさ
 せて書くべきであろうが知見は無い。案内の字の大きさからすると久宝寺の関係が大の様であるが、久宝寺までの
 道は同じとして問題なかろう。)
(解説板にある「大阪」の表記が珍しいとあり、近世の作では確かに数は少ないが、統一表記法がない時代でもあり
 書く人任せで「摂津市三島2の道標」「高槻市富田町4の道標」「神戸市東灘区住吉南町4の東側道標」等、
 紀年銘は無いが近くの「生野区勝山北4の道標3」も「大阪」を使いこの辺りは此方を使っていたとも考えられる。)

写真himg4972 写真himg4973 写真himg4974
【1.道標を東に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を南東に望む
 左(北)七福之辻へ  奥(北)七福之辻へ  奥(南)70m三ツ辻を
 右、鶴橋中学へ】  左60mつるの橋跡碑】  左折道成りに鶴橋中学へ】

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【4.道標北西面上部 【5.道標南西面拡大 【6.道標南東面拡大
 「慶應二年」  「右八尾久宝寺」  「左大阪」
 「丙寅二月…」とした】  「信貴山」とある】  とある】

写真himg5009 写真himg5004 写真himg5040
【7.道標北西面下部 【8.道標後ろの解説板 【9.道標西つるの橋跡の解説板
 「鐘講」  道路状況や  の古絵図の左下部
 と読める】  移設には触れず】  左が北方向になる】

写真himg2318
【16.大阪市生野区の道標】

【解説板の内容】


 道標
  東面 (文字なし)
  西面 右八尾 久宝寺 信貴山
  南面 左大阪
  北面 慶応丙寅二年 鐘講

この道標は 慶応二年(西暦一八六六年)に
建てられたものです 当時は 江戸時代から
明治時代に移り変わる寸前で 幕末の混乱し
た時代でした
江戸時代では 「大坂」の字が多く用いられ
ていましたので 「阪」の字をつかったこの
道標は 非常に珍しいものといえましょう
西面に「右八尾・久宝寺・信貴山」とあるの
は 当時 近畿地方の人たちが さかんに信
貴山に お参りしたことを示しています
南面に「左大阪」とあるのは 鶴の橋をわた
り大阪へ向う人びとの正面に読めます
郷土の人たちが残されたこの貴重な文化財を
いつまでも大切にしたいものです
 昭和六十二年十一月
         猪飼野保存会
 寄贈 生野ライオンズクラブ(下部に横書)

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