9.堺市堺区三国ヶ丘御幸通の道標(和泉国内)

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堺市堺区三国ヶ丘御幸通154 府道30号堺東駅前南口交差点南東部植込み中に西を正面に建つ。
(南海高野線堺東駅西ロータリー南西部でもある)
(北東10mに「堺区三国ヶ丘御幸通の道標2」が建つ。)
角柱 198x31.5x30p
N34.574061 E135.483924


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西面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│  履中天皇御陵   十八丁        │
│右        道            │
│  仁徳天皇御陵   十四丁        │
└――――――――――――――――――――――┘
(「中」は□で囲む)

南面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│             發   冨山辰造 │
│大正二年三月大阪皇陵参拝團 起  後藤安吉 │
│               人 宮本芳蔵 │
│                 河野與三郎│
│             賛成員      │
│                 工藤竹松 │
└――――――――――――――――――――――┘

東面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│  石 天下茶屋              │
│  工 石庄                │
└――――――――――――――――――――――┘

北面
┌─―――――――――――――――――――――┐
│左 反正天皇御陵道 二丁          │
└――――――――――――――――――――――┘


(大正二年は、西暦1913年である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、231。)
(現在(2021)の阪神高速堺線が通る道より東は、和泉国内となり対象外であるが、調べたので載せておく。)
(「大阪皇陵参拝団」について知見は無いが、堺市図書館の「地域資料デジタルアーカイブ百舌鳥古市古墳群特集」
 に「明治から戦前の昭和にかけて各地の天皇陵を参拝して巡る「皇陵巡拝」が行われていました。 」と有る様に
 参拝記念に建てたものか。戦前の時代背景を感じ取れる道標であろう。
  昭和四年修正の地図を見ると堺東駅の南に踏切があり「反正天皇陵」へはこれを渡るのが近いが、踏切を越えて
 からでも御陵前まで400m程になり「二丁」は短い。「仁徳天皇陵」へは2km以上となりこれも距離が合わないの
 で直線距離を示したものかも知れない。距離を問題としなければ現在位置で向きもそのままとして、案内に不都合
 は無く、移設はされていないかもしれない。天皇名が主で、道案内が第一義の道標では無さそうである。
  この他にも同参拝団が建てた道標が存在する様です。)
(東面下部に「石工…」と小さく刻んでおり、辻に立っていた場合一番目立たない側になっていたと想像され、四辻
 であったなら南東部に位置しており、東に建物や木があったかも知れない。
  尚、石工の名を刻むものは時々見かけ、
 「高槻市原2017の南の道標」
 「池田市綾羽2の道標」
 「豊能町野間口の道標」
 等、その他にもある。)

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【1.道標を南に望む 【2.道標を北に望む 【3.道標を東に望む
 奥(南)鳳へ  奥右、高野線堺東駅  左端の堺東1号踏切を
 右(西)大小路へ】  奥(北)遠里小野橋へ】  東に越え反正天皇陵へ】

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【4.道標北面上部 【5.道標西面上部 【6.道標南面上部
 「左、反正天皇…」  「右、履中…」  「大正二年三月」
 は東を示す】  「仁徳」は南を示す】  「大阪皇陵参拝團」】

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【7.道標北面下部 【8.道標西面下部 【9.道標南面下部
 「御陵道二丁」は  履中へ「十八丁」  「發起人」はよくある
 直線距離か】  仁徳へ「十四丁」】  「賛成員」とは何か】

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【10.道標東面下部 【11.道標を南東に望む
 「石工」は横書き  履中の「中」を
 下に住所と屋号か】  四角で囲む意味は】

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【12.堺市の道標】
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