9.大阪市淀川区加島4の里程標

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大阪市淀川区加島4−4−20 香具波志神社北入口東側の玉垣の北に北を正面に建つ
(東西が明治の中国街道)
尖頭型角柱 147x18x18p(頂高4p)
N34.732213 E135.457134


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北面
┌─――――――――――――――――――――┐
│國道第二十六號路線 距高麗橋元標 貳里  │
└―――――――――――――――――――――┘

西面
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│(なし)                 │
└―――――――――――――――――――――┘

南面
┌─――――――――――――――――――――┐
│明治四十年六月建設 大阪府        │
└―――――――――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――――――――┐
│(なし)                 │
└―――――――――――――――――――――┘


(明治四十年は西暦1907年となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行には、未記載
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(行先の記述が無い為道標とはならないが、明治時代の道筋が確定できるとし、載せる。
 この里程標からは高麗橋元標迄の距離が2里(7.85q)と示されており、十三辺りや茶屋町・高麗橋間(多分、西天
 満から難波橋)が分かり難いが現在の地図でトレースすると8.1q程になったので元位置はやや東寄りかも知れない。
  参考として『大阪府史』明治36年刊、昭和36年復刻を挙げておくと
 「國道第廿六號路線 本線は大阪第四師團より姫路師團に通ずるを以って目的とせり。…東区高麗橋元標より起り、
 北区北野茶屋町に出で西成郡中津村、神津村、歌島村を経て神崎川府縣界より兵庫縣川邊郡小田村の内神崎に入る、
 延長二里二十一町四間にして…」とあります。
  元位置を確定させるならば、終点までの距離21丁4間(2,296m)を用いるべきかも知れない。が、こちらも神崎川
 を越す経路と終点の内神崎(村内の神崎かも)が不明ながら明治の地図を用いると、これもやや東を示し、移設されて
 いる可能性がある。里程標だけに元位置は明確にしたい。
 『今昔マップ on the web』で明治42年測図の「中国街道」が見える。
  尚、明治30年頃から43年にかけて新淀川の開削が行われ、新淀川の十三大橋が明治42(1909)年に鉄橋完成とあり、
 当碑が建てられた時点での経路の同定は難しい。神崎橋は大正13(1924)年の架橋と大阪市のホームページにあり渡し
 部分の経路もどう読み解くか悩む。)
(東に「淀川区田川北1の石標」西に、神崎川を越え「尼崎市西川2の地蔵道標」に繋がります。
 市内の里程標としては「東成区中道4の里程標」等が有ります。
  蛇足、現、国道2号に相当する道として梅田街道(難波橋北詰−尼崎辰巳橋)か大和田街道(浦江−蒲島)が挙げ
 られますが、当時は新淀川の西成大橋(明治41年完)も無く中津川、神崎川も渡しと思われる。
  当時の國道二号は京都−大阪港、國道參号は京都−神戸(現171号)の様である。)
(ここにきて、「高麗橋元標跡」の記載が無い事が分かり、今回合わせて追加します。尚、別のサイトには作成済み。)

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【1.里程標を東に望む 【2.里程標を西に望む 【3.里程標を南東に望む
 奥(東)十三へ  奥、旧中国街道神崎へ  手前は神社標
 右、香具波志神社へ】  手前が当里程標】  「かぐはし」か】

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【4.里程標北面上 【5.里程標北面中 【6.里程標北面下
 「國道第二十六號路線…」  「距高麗橋元標」  「貳里」は高麗橋元標
 府史に渡津は不便とある】  へだつること…】  より2里(7.85q)】

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【7.里程標南面上 【8.里程標南面中 【9.里程標南面下
 「明治四十年…」  「六月」  「大阪府」は高麗橋元標
 は西暦1907年】  この下に「建設」】  より2里(7.85q)】

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【10.大阪市淀川区の道標】
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