16.大阪市東淀川区南江口町3−15の道標

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大阪市東淀川区南江口町3−15−60 第二江口町会館玄関西前に、倒置される
尖頭型角柱 132x21x21(頂高5p)(基部50x27x25p高さに含む)
N34.754472 E135.554833


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上面
┌─―――――――――――――┐
│左 大坂道         │
└――――――――――――――┘

右面
┌─―――――――――――――┐
│  京 道         │
│左             │
│  わたし         │
└――――――――――――――┘

下面
┌─―――――――――――――┐
│安政三年丙辰八月三日    │
└――――――――――――――┘

左面
┌─―――――――――――――┐
│  京 道         │
│右             │
│  わたし         │
└――――――――――――――┘


(安政三(丙辰)年八月三日 は西暦1856年9月1日月曜日である。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、595(教徳寺東の3丁目にあった、現在なし)
 『大阪市立博物館研究紀要第三冊』1971(昭和46)年発行には、未記載。)
(明治の地図を用いると、この会館の北西20mに現神崎川左岸に続く細い道が見え、ここに建っていたとするのが最も
 妥当と思われる。前述の書の記述(門前から東へ120m)にも一致する。この三ツ辻(南江口町3−10−15)
N34.754564 E135.554619
 に立っていた場合、大坂は南東からすぐ南に向きを変え長柄方面と考え、現、上面が北東面して建っていたとする。
 この時、渡しから南に進んできて辻の正面に見えていたとなる。西の教徳寺方面から来た人には。寝かされた右面の
 「左、渡し・京」が、大坂方面から西に進んできた場合は「右、渡し・京」が、下面の紀年銘が一番目立たない面に
 なって、問題は無いでしょう。
 よって、三ツ辻南部に建っていたとし20mの移動とします。
 『今昔マップ on the web』の明治42年測図の地図では、卍記号で北への道が見えず、南西への道が見え、四辻と受け
 取れるが、現状では南西への路地が15m東寄りから出ており、筋違い四辻としても良い。)
(大坂方面の道標としては南西に少し離れるが「大桐3の道標」から、「菅原1−3の道標」「菅原1−4の道標」
 等が有り、渡しを渡れば、「摂津市一津屋1の道標」はすぐです。)
(尚、安政三年の「江口の渡し」の場所はよく知りません。明治の地図により想定しただけです。ご注意下さい。
 国会図書館の『攝津名所圖會 [3]』に「江口」「江口渡口」「君塚」が見えるが、同定には使えない。)

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【1.道標を北西に望む 【2.道標を北西に望む 【3.道標を北西に望む
 中央物置左に倒置  右、会館入口  手前に基礎部があり
 左奥20m右、渡しへ】  左、ブロック塀下に道標】  上部は北東に向く】

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【4.左面拡大 【5.上面拡大 【6.右面拡大
 「右、京道・わたし」は  「左、大坂道」は  「左、京道・わたし」は
 北への道であろう】  南東への道であろう】  北への道であろう】

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【7.下面上部拡大 【8.下面中部拡大 【9.下面下部拡大
 「安政三年…」  「…丙辰八月三…」  「…三日」
 西暦1856年9月1日】  西暦1856年9月1日】  西暦1856年9月1日】

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【10.道標想定元位置を西に望む
 右側2本目電柱を右(北)に渡しへ
 左、その突当り(黒門扉西)辺りが
 元位置か、手前左は集落中への路地】

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【11.大阪市東淀川区の道標】
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