13.羽曳野市野々上3−3の道標

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羽曳野市野々上3−3 竹内街道南折れ点(四辻)の北西角に南を正面に建つ
(辻の対角線、南東部に地蔵道標もある、ここに載せる)
尖頭型角柱、93x21x18p(頂高6p)
N34.557423 E135.593324


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南面
┌─――――――――――――――┐
│右 大坂           │
│      道        │
│左 さかい          │
└―――――――――――――――┘

東面
┌─――――――――――――――┐
│  釋妙宿 天保六未四月晦日 │
│法名             │
│  釋徳證 文政五午十月十一日│
└―――――――――――――――┘
(「法」はサンズイに「吉」と見える)

北面
┌─――――――――――――――┐
│(なし)           │
└―――――――――――――――┘

西面
┌─――――――――――――――┐
│     天保七申三月    │
│右 はせ           │
│     田中氏       │
└―――――――――――――――┘


(天保七(丙申)年三月1日とすると、1836年4月16日土曜日となる。)
(天保六(乙未)年四月晦日(29日)は、1836年5月26日火曜日となる。)
(文政五(壬午)年十月十一日は、1822年11月24日日曜日となる。)
(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、6)
(現在の西からの広い道はこの東50m辺りで大きく南に下っているが『今昔マップ on the web』明治の地図
 を見を見ると、この辻で南に折れる道が「竹内街道」であったようだ。多分東に向かう道はなく三ツ辻であ
 ったと想像できる。
  この状況では、「右大坂」は北へ進む道を示し、「左さかい」は西(竹内街道)を指す事になると思う。
 西面の「右はせ(初瀬、長谷寺)」は南に折れ竹内街道を指示している。さてここで問題となるのが、北に
 向うとする「大坂」です。南東(古市)から来た人には三ツ辻を直進せよと受け取られ、竹内街道から大坂
 への分岐点となる重要な辻と思われます。が、現在ではそれに相応しい道が見当たりません。さあどうしま
 しょう。
  竹内街道の西1.2qにある「羽曳野市伊賀の道標」に「右大坂」とあるので、それよりも短い経路で無け
 ればなりません。又、竹内街道から大坂へ分岐し中高野道を進めとする「松原市岡5の道標」経由道よりも
 近い道となるはずです。上記明治の地図に戻ってルートを探してみる。
  一つは、野々上の集落東を北に進み野中寺を抜け葛井寺に向かう。二つ目は、野々上の集落中を西に抜け
 伊賀の集落を目指す道となります。第一候補は藤井寺経由となり距離的に遠くなりそうで候補から外すと、
 第二候補が有力でしょう。これを採り、現在の伊賀1丁目に出ると府道191号に出てその後、近鉄高鷲駅の
 南に進めば近い様に思う。ただ、村中を通過する道を案内する点と、西160mの四辻で北に分岐する道の方
 が分かり易そうな気がする点で判断を迷う。)
(竹内街道西660mの「はびきの5昭和の道標」に続きます。
 古市より東から大坂へ向う人は、「羽曳野市古市簑の辻道標」で分岐しここを通らなかったかも知れない。)

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【1.道標を東に望む 【2.道標を西に望む 【3.道標を南に望む
 右(南)へ竹内街道  奥(西)へ竹内街道  奥(南)へ竹内街道
 新道も50m先で南へ】  「右大坂」は北へ】  左端の祠に地蔵道標】

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【4.道標南面拡大 【5.道標東面拡大 【6.道標西面拡大
 「右 大坂」  「天保六未四月晦日」  「右はせ…」は
 「左 さかい」】  「文政五午十月十一日」】  長谷寺であろうか】

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【7.道標西面下部
 右側「天保七申三月」
 これが建立年であろう】


【99.羽曳野市野々上3−6の地蔵道標】

羽曳野市野々上3−6−1 竹内街道南折れ点(四辻)の南東角の祠内に西を正面に建つ
地蔵型 大きさ未測定(『大阪の街道と道標』では100x41とある)
N34.557319 E135.593431


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西面
┌─――――――――――――――――┐
│  右 者せみち 左ハならミち  │
│(地蔵像)            │
│  為正□信士菩提乃□法界普利  │
└―――――――――――――――――┘

その他の面不明


(『大阪の街道と道標』武藤善一郎、平成11年発行では、7)
(この道標も難解である。地蔵光背部に案内があるが、通常地蔵を挟み「右」は右側に書き
 「左」は左側に書くことが圧倒的に多い。この地蔵は男の人の菩提を弔うため建立された
 と思われ、その人の戒名を左側に刻んでいる。よって右側に左右の案内を書いている。こ
 れはスペース上仕方ないとして、行先に合点がいかない。「者せ」を「初瀬」、「長谷」
 として竹内街道を南に進んで良しとできるが、「左ハ奈良道」が示す道は、上記の説明で
 無かったとしているのである。現状の道路状況であれば左右共に合流し同じ道を進むこと
 になり、案内の必要もない。よって建立時点では上記と同じく三ツ辻であったとし、左は
 北へ進む道を案内する事になる。上記の道標では「北、大坂」を示し辻褄が合わない。
  一つの解決策として、大坂、奈良とも北に進み、80m北の四辻で、奈良は東に折れ誉田
 へ向い、亀野瀬辺りを通るとすれば良いか。)

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