神社(参道)の神事、祭事

石切神社は365日、毎日ご参拝に来られる人、お百度を踏む人で賑わっている。特に神事、祭事は大勢の人が参拝に訪れる。この日は参道も活気が出る。一度と言わず何度も訪れよう。お参りしよう。

1月14日 2月3日 5月3〜5日 7月2日 8月3,4日 11月21,22日
とんど祭り 節分祭 子供祭 献牛祭 夏期大祭 秋季大祭

石切神社祭神は、

石切剣箭神社:饒速日尊可美真手命(うましまでのみこと)
登美霊社  :
三炊屋姫(みかしきや姫)
石切祖霊殿 :石切大神

系図風に並べてみますと、

饒速日尊
 ||(婚姻)−●
可美真手命
三炊屋姫
 | (兄妹)
 
長髓彦

と関係者4人の内、●印をつけた3人までがここに祭られており、そうならば、残る「石切大神」とは「長髓彦」のことではないだろうか、と思いました。

実は、「石切」がアイヌ語で「長い・足」の意味になるのです。如何にも「長髓彦」の名前を隠蔽しながら、祭っているような気にさせます。

萱野茂著「アイヌ語辞典」によると
i(い) 物、事、所、その、それ(が、に、を、へ)
やつ;私(に、を、の)
si(し) 本当に、まったく、最も、ぐっと、
自分(で);それ(を、の)
kir(きり) 足、骨髄;知っている;見覚えがある

となります。 系図の検討とアイヌ語(先住民語を色濃く残していると思われる言語です)での「イシキリ」の意味、の2点から、石切大神とは長髓彦のことか、と推理しております。 (日本古代史とアイヌ語談話室への御案内より

とんど祭

1月14日

正月の注連縄など飾りを持って、三々五々近在の人々が集まる。山と詰まれたこれらに火が着けられた。真冬の夜空に勢いよく炎が上がるとんどに先立ち上の宮から神社まで参道筋を、太鼓を叩いた行列がある。1月14日に年始の縁起物・〆縄などを持ち寄り燃やす。
午後6時より上の宮に、氏子商店街関係者が集まり祭典があり、そこで神前で採火をし、松明に御神火を移す。松明を先頭に行列を作り本社に向けて商店街を練り歩く、午後7時頃に本社御神火祭場に到着、〆縄などの山に火を移して本年の無病息災などを祈る
     
豆まき

2月3日
午前11時と午後2時の2回、神社境内絵馬堂で豆まき餅まきが催行される。
参道商店街も協賛し、各店舗が景品を10点提供する。豆撒きが終わると、景品引換券を拾った人が店屋を探し右往左往。それに伴い石切参道商店街振興組合では、福餅の中に景品引換券を入れております。(H12)

平成13年の節分祭では
  参道筋をチンドン屋が派手に景気づけ
    チンドン屋を見に行く

しかも、
豪華景品が当る豆撒きを実施。大勢の人で賑わう。

 
    
     
子供祭り 石切さん こどもまつり  
5月3日 4日(夢祭り 夢観音堂) 5日(端午節祭)参道商店街も子供たちに飴を配布する。

 昔は小さな子供がお婆さんに連れられ沢山参道を歩いた。おもちゃ屋、駄菓子屋なども数多くあった。
 夏には網を持った昆虫採取の子供達も行き交った。しかし、最近はメッキリ子供連れの老人の姿が少なくなった。

     
献牛祭
7月2日
こんな牛が五頭パレードするが、今年は皇太后ご逝去でなかった。
  毎年7月2日、石切剣箭神社で執り行われる「石切さん献牛祭」の牛車を展示している。石切さん献牛祭は、鎌倉時代から江戸時代にかけて盛んとなり、昭和初期まで神社に伝わっていた神事です。
田植えを終えた農民は、黙々と働いてくれた飼牛の労をねぎらうため、好物のご馳走をふるまったあと、紅白の幣 や錦絵や鈴などで牛を飾り、神社に参拝して、五穀豊穣と家内安全を祈願しました。美々しく装った牛たちが、近隣から競うように社頭に集って来る光景は誠に壮観だったろうと思われます。昭和60年丑年にちなんで、この祭りが復活され、神社の境内に「親子連牛像」も建立されました。以来毎年7月2日に献牛祭を執行し、連牛像を中心に、ここに展示の「牛車」により参道いっぱいに時代絵巻のパレードが繰りひろげす。

パレードを見に行く⇒Click

     
宵宮

8月
3日

  夏期大祭
 
3日 宵宮  境内は露店が並ぶ
    

  8月3日10時頃 神輿渡御
       神社⇒上の宮 
      参道筋を巡行する

神輿渡御
夏期
大祭
8月
4日
        積乱雲、猛暑、汗

     もっと楽しみたい        ⇒CLICK
3日宵宮祭
神輿渡御  神社⇒上の宮 3日10時頃

4日 大祭 太鼓台巡行

     
  秋季大祭    10月21日
                 22日
大祭期間中は宝物館一般公開
   
   もっと見たい⇒
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