有田鉄道のあゆみ

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金屋口駅構内 1988.11

沿革

有田鉄道は有田みかんの産地である有田川流域とこれを船積みして出荷する湯浅港を結んで、みかんの搬出の便を図るため明治末期に創設、
明治45(1912)年3月9日付けで海岸-金屋口間9.1kmの免許を得て、第1期工事として海岸-下津野間6.2kmを着工、 大正4(1915)年5月28日に営業運転を開始。

大正5(1916)年7月1日に第2期工事として着工していた下津野-金屋口間2.9kmも完成し、営業を開始。

大正10(1921)年に和歌山側より紀勢西線が着工され、大正15(1926)年8月8日に宮原-藤並間が開業、
有田鉄道も藤並に国鉄との連絡口を設け、さらに昭和2(1927)年8月14日に藤並-紀伊湯浅間を開業したため、 藤並駅の南方で紀勢西線と有田鉄道が平面交差するようになった。

第2次世界大戦中の昭和19(1944)年12月10日に海岸-藤並間3.3kmが紀勢西線と併走しているため、 不要不急路線として営業休止し線路が撤去され藤並-金屋口間5.8kmが残る。
この経緯から戦後に国鉄紀勢西線の藤並-湯浅間に乗り入れを行うことになり、昭和25(1950)年4月から有田鉄道の車両と乗務員で湯浅までの乗り入れが開始。

海岸-湯浅間は紀勢西線の開通後は振るわず昭和9(1934)年2月1日以降は営業を休止、
貨物営業は昭和13(1938)年2月20日に復活したが旅客営業は復活せずに昭和15(1940)年4月8日をもって旅客営業を廃止、
貨物線として存在し免許を繰り返し更新し続けたが、昭和34(1959)年4月2日をもって廃止された。

昭和23(1948)年には火災によって本社を焼失、また昭和28(1953)年には有田川流域を襲った二八豪雨による災害で本社や車両の流失など甚大な被害を受けた。

平成4(1992)年12月に紀勢線湯浅までの乗り入れが廃止、原因は平成3(1991)年5月に発生した信楽高原鉄道の事故の影響とも言われている。

平成6(1994)年12月からレールバスの運行に替わり、平成7(1995)年3月からは日祝日の運行休止、
平成13(2001)年11月からは1日2往復に減便され、平成14(2002)年12月31日にさよなら列車が走り終焉を迎えた。

平成22(2010)年3月に終点の金屋口駅は有田川鉄道公園となり、キハ58とレールバス等が展示され、廃線跡もサイクリングロードに整備される。
平成29(2017)年の夏休み期間中、4月に搬入されたD51がエア動力化され構内走行する。

施設 昭和41(1966)年当時

軌間は1067mm 最少曲線半径は本線では藤並から田殿口駅に入る手前にある。
最急勾配は9‰で金屋口-御霊間にあり隧道は無い
橋梁は12カ所で最長は鳥尾川橋梁23.66mである。

全線単線で駅は5カ所、対向可能は下津野駅で田殿口には貨物用の側線があった。
閉塞方式は票券式、信号機はは両端の藤並・金屋口の他、下津野の上下線に場内信号機のみあり、2位腕木式である。

田殿駅の貨物用側線、下津野駅での対向設備などは昭和59(1984)年2月の貨物営業廃止後に不要となり淘汰される。

機関区・本社とも戦前は湯浅にあったが、海岸-藤並間の廃止によって金屋口に移された。
廃線となった海岸-藤並間には海岸・湯浅・吉川・藤並の停車場があり、田殿口-藤並間には明王寺停車場があったが、明王寺は昭和6年、吉川は昭和12年に廃止されている。