和歌山港線のあゆみ

和歌山港線南海汽船四国航路の開業に伴い昭和31年5月6日に和歌山市-和歌山港(初代)間が完成し、 昭和46年3月9日に水軒まで延長され和歌山市-水軒間5.4キロを結ぶ単線の線区で、 同時に和歌山港駅は新線上の現在地点に移設されました。
平成14年5月25日に和歌山港-水軒間が、平成17年11月27日には中間駅の久保町、築地橋、築港町の3駅も廃止されました。

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和歌山港線の水軒川橋梁を行く普通列車 1995年3月13日撮影

建設された経緯

建設された経緯は、和歌山県が紀ノ川河口に和歌山港を再築するため昭和24年度から5カ年計画工事を進めており、 港湾の機能を発揮させるため客貨の輸送に当たる臨港鉄道の開設について和歌山県と南海電鉄の間で協議が重ねられました。

南海は戦前に和歌山市駅から紀ノ川河口へ出て和歌浦に至る鉄道敷設免許を持っており協議の結果、 県は南海の鉄道敷設の免許県の一部(久保町-和歌山港間)を譲り受け港湾の付帯施設として同区間の臨港線の建設を受け持ち、 南海は国が臨港線として認められない区間(和歌山市-久保町)の線路建設と旅客扱いのための諸施設、電気設備工事を行い、 その代わり臨港線の運営は南海に委託する事、港の利用(船舶の使用)につい特別の配慮をする事などで合意しました。

初代和歌山港までの開通

昭和31年(1961年)5月6日、客船「南海丸」が出港し「南海四国ライン」が始動、 その後昭和37年は連絡列車として「あわ号」「とさ号」を特急に昇格し一部座席指定制を採用、 四国地区の連絡体制を積極的に推進するため国鉄と協力し、昭和37年4月には小松島港~高知・多度津間に準急「あさ号」、 昭和38年2月には多度津行きを松山まで延長して準急「いしづち号」が運転され四国地区の国鉄網と連絡し 徳島、高知、愛媛、香川の四国全県と連絡運輸の効果を発揮しました。

昭和39年12月には当時日本最大の客貨兼用船カーフェリー「きい丸」(3,000トン)が就航し連絡特急「きい号」を新設、 フェリーの時代が始まりました。

水軒までの開業

その後、和歌山南港で木材専用港と工業用地を整備する計画が進むに合わせて路線を水軒地区まで延伸する事となり、 今回も和歌山県が建設し県営鉄道と扱われる事となったが、昭和42年の着工の段階では水軒駅は旅客駅ではなく貨物専用駅とされておりました。
船の発着は従来の客船乗り場から外港に新設されたフェリー乗り場が主となっており、列車からの乗客は連絡バスでの乗換が必要であったため、 昭和46年3月の路線延長の際に従来の和歌山港駅(初代)を新線上に移設して築港町と改称し和歌山港(新)、水軒が開業しました。

水軒での旅客営業は1日に2往復の列車が運行されましたが貨物輸送は見送られたため1日1往復の不定期の貨物ダイヤは設定されていましたが 貨物列車が来る事はなく、昭和59年2月1日には築港町の貨物取り扱いも廃止されました。

和歌山港-水軒間の廃止

平成13年9月になって和歌山港-水軒間の踏切が渋滞を起こすという理由で廃止問題が浮上し、 平成14年5月25日にお別れ列車が走り和歌山港-水軒間が廃止されました。

中間3駅の廃止

平成17年11月27日には中間駅の久保町、築地橋、築港町の3駅も廃止されました。

水軒駅跡は線路が放置され荒廃していたが2009年頃から浜友会「水軒の浜に松を植える会」により松の植樹や施設整備が行われ見違えるようになりました。
線路跡も花王工場への進入路や遊歩道などに活用されています。